日本語と日本人の、主客融合性について

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928名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/08(水) 21:51:11 0
例えば授与表現の「やる」「くれる」の対立は、ダイクシス(deixis)の一種と見られる。
ダイクシスとは、話しての視点の置かれる位置を基準にして指示対象が決まってくる言語形式で、
人称代名詞や指示語がこれに対応する。
移動動詞に「行く」と「来る」のようにダイクシス動詞の対立を持つ言語は多いが、
授与動詞で対立を持つのは類型論的にも珍しい。

しかし、日本語は古い時代には授与動詞のダイクシス対立を持っていなかった。
平安時代には「くる」(下二段)が求心的、遠心的いずれの方向にも用いられる一方、
「やる」は「手紙を送る」「使いに行かせる」という限られた意味を表し、
一般的な授与表現には用いられなかった。
しかし、「くる」→「くるる」は室町時代までには遠心的授与にあまり用いられなくなり、
中世末期までには完全に求心的方向にのみ限られるようになった。
一方、「やる」は鎌倉時代頃から一般的な遠心的授与に用いられるようになり始め、
中世末期までには一般的な遠心的授与が用法の大半を占めるようになった。

現代日本語の方言を見ると、遠心的/求心的授与を区別する方言が多いが、
北海道南部、東北地方、群馬県、長野県中北部、鹿児島県、沖縄県では区別がない。
このような分布から、かつては日本語圏で授与表現にダイクシス対立がなく、
後に中央で区別が生じ、現在では周辺部に区別がない地域が残っているということができる。
929名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/08(水) 21:52:53 0
>>926
じゃあ、その互酬性は日本とマサイ族にしか見られないの?
930名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/08(水) 21:54:55 0
364 名前:名無しさん@3周年 投稿日:2008/09/18(木) 17:45:09
昔の日本語では「やる・あげる」も「くれる」という表現を使っていたらしいけど、
それがいつからか区別して使われるようになったんだとか。
その名残りがいまでも方言での「くれる」という用法に残っているという話↓

「お花の水くれ」ってヘンですか?
ttp://www.excite.co.jp/News/bit/00091213284226.html
931名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 11:27:13 0
>>928
分かりやすい解説、ありがとう。
ソースがあったら、教えてください。

>このような分布から、かつては日本語圏で授与表現にダイクシス対立がなく、
>後に中央で区別が生じ、現在では周辺部に区別がない地域が残っているという
>ことができる。
私の知り合いで、新潟出身の70代の男性は、
「あんまりほしがるから、くれたら喜んでね。」
という言い方をしていた。

>しかし、日本語は古い時代には授与動詞のダイクシス対立を持っていなかった。
そう言えば、確か「モダリティー(表現)」と言われるものの大部分も、古い
時代の日本語にはなかったものだよね。
(尾上圭介氏の、「日本語を理解する上でモダリティーなどという訳の分からな
い文法範疇は不要だ」という主張は少なくとも古代語にはきっちりと当てはま
ると思う。)
また、日本語の敬語は、韓国・朝鮮語の敬語などと比べて、「相対敬語」と
言われるけれど、かつては「絶対敬語」だったとも言われているよね(?)。

古代の日本語は、客観的方面・主観的方面の両側面において「未発達」だった
ということだろうか??

>>930
「そんなにほしけりゃ、くれてやるよ。」
の「くれる」は、かつての用法の名残が中央語(ただし待遇度超マイナス)に
残っている例だね(?)。
932名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 15:47:18 0
ほんっとマジで、その結論に至るまでの推論過程がさっぱりわからん。
研究内容も発表せず、ただ結論のみの研究発表が人々を説得可能であると。
自己中心的な人って自由でいいよな。
933名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 16:23:37 0
「われ考う ゆえに日本語に主客融合性あり」

説明責任なんてないんだよ〜んってか
934名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 16:23:38 0
恣意的な言語において発達未発達ってどうやって識別可能なの?
935名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 16:31:37 0
互酬性の原理が古い社会と密接に関係し、
かつ、授与表現上の分節が互酬性の原理と正の相関性を持つとすれば、
時代を遡れば遡るほど授与表現上の分節がより鮮明になる必要があると思われるのだが、
>>928 >>930によれば、実際に起こったのはその逆ということみたいだな。
936名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 16:48:28 0
>>935
自論に都合の悪いところは無視するバイアスがかかってるので、そういうところは考慮に入れません。
937名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 18:09:51 0
>>895,>>934
「恣意的な言語」(>>934)って、なに?
それは、ソシュールの主張をあまりにも【恣意的】に「理解」してしまってい
ないかい。
>>895は、「その第二の恣意性、つまり構造の自律性」と言っているが、『ソシ
ュール小事典』を見る限り、そのようなことはどこにも書かれていないのだが…。
(ちなみに「第二の恣意性は、一言語体系内の記号同士の横の関係に見出され
るもので、個々の辞項のもつ価値が、その体系内に共存する他の事項との対立
関係からのみ決定されるという恣意性のことである。」(p.86)となっている。)

>>895>>873)が言っていることは、ソシュールが厳しく批判した「言語名称
目録観」(観念や事物は言語とは独立してそれはそれとしてあって、言語は観
念や事物の目録なのだとする考え)といったいどこが違うのだろう??

なお、同書p.87には次のような記述もある。
***
私たちは日本人として日本語共同体の中に生まれ育った以上、日本語的思考か
らも逃れられなければ、日本語的分節の仕組みからも逃れられないのである。
***
ソシュール的思考は、むしろ言語とそれを使う人との関わりを強く意識するも
のだよ。

同書でも再三注意されているが、ソシュールの言う「恣意的」ということばを勝
手に拡大解釈するのはやめようね。
(ソシュールの「恣意性」とは、「本能的な必然性はない」という意味だそうだ
ね。もしそれがあれば、人間の言語は一種類しかありえなくなる。)
「言語に先立つ観念はなく、言語以前には、何一つ明瞭に識別されてはいない」
(p.80)というソシュール的考え方をどう考えているのだろうか?
もちろん、そのようなソシュール的思考に反対するのは自由だけどね。
938名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 18:24:40 0
>>935
中世末期までさかのぼれば、「やる・くれる」の対立は成立していたようでは
ないか。(>>928
中世末期も十分に「古い」よw。
時代をさかのぼればさかのぼるほど互酬性が強くなるなんて、誰か言ってたか??
939名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 18:48:52 0
>>893
遅レス、スマヌ。
>> どういうことかといえば、英語なら、弟に対しても、女王陛下に対しても、
>> This is a pen.
>> が使えるのに、日本語では、その両者に共通して使える表現がないでしょ。
>「これはペン」「これはペンである」ならば共通して使えるのでは?
お〜い、それは弟には使えるかもしれんが、女王陛下に向っては言えんでしょ。
女王陛下どころか、上司にもふつう言えないよ!
特に後者の例は、誰にもふつう使えないでしょ。
あなたは、だれに対しても「貴様」呼ばわりしようと思えばできるのだが、たま
たましていないだけと言ってみたり(>>875)、とてもついていけない。
目の前にある日本語の実態から目を背けるなと言いたい。

>>つまり、日本語の表現と言うのは「特定の誰かのためのもの」になりやすい
>>ということ。その現場、その現場に密着した形で、特定の「あなた」に応ずる形で表現が
>>成立する傾向を色濃く持っている。
>「特定の誰か」(二人称が問題)ではなくて、私的と公的とが区別されている
>んじゃないの?
敬語が使われる場合として、@目上に対してA「疎」の人に対してB改まった
場面で という三つが指摘される。
あなたは、このうちのBの場合を言っている。しかし、@やAの使い方は厳然
として存在する。
(上司→部下)「よかったら、食べて。」
(部下→上司)「よろしかったら、召し上がってください。」

>>894の議論は、その表現が単語(辞項)として成立しているか否か、其の使用
が任意なのか義務的なのかを無視した議論。
940名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 22:00:21 0
>>937
> 「恣意的な言語」(>>934)って、なに?

ソシュールのいう意味での言語記号のことだよ。
事物から独立・自律して成り立つがゆえに恣意的なシステムとしてのラングのこと。

> >>895は、「その第二の恣意性、つまり構造の自律性」と言っているが、『ソシ
> ュール小事典』を見る限り、そのようなことはどこにも書かれていないのだが…。

ですから、その本にはそこまでは詳しく書いてないようだから、
『言語論のランドマーク―ソクラテスからソシュールまで』(大修館書店)を
参照してみてと書いているじゃん。こちらにはそこまで突っこんで書いてあるから。

ちなみに厳密にいうと、構造ではなく「システムの自律性」というべきだったけどね。

> (ちなみに「第二の恣意性は、一言語体系内の記号同士の横の関係に見出され
> るもので、個々の辞項のもつ価値が、その体系内に共存する他の事項との対立
> 関係からのみ決定されるという恣意性のことである。」(p.86)となっている。)

そう。それが要するに言語システムの自律性を意味するんだよ。
そちらの言い方を借りれば、言語システムは原理的に主客融合的だということ。
>>873での構造主義的システム観の説明と同じことを言っているのが分かるでしょ?

個が全体以前に成り立つのではなく、全体があってその中での対比関係によって
はじめて個が成り立つ、ということを言っているわけだね。

941名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 22:15:18 0
>>937
> >>895>>873)が言っていることは、ソシュールが厳しく批判した「言語名称
> 目録観」(観念や事物は言語とは独立してそれはそれとしてあって、言語は観
> 念や事物の目録なのだとする考え)といったいどこが違うのだろう??

名称目録観は、言語システム内の個々の単位が他のシステムを「反映」して予め成り立つ
ことを前提するもので、その点に批判的なのが構造主義的なシステムの考え方であるわけね。
だから少なくとも外界の事物の反映なんてことはない。
著者である丸山さんはそこで「事物」という表現を本当に使っているのかなあ?

もちろんそれは理論的考え方であって、それがどの分野でその程度まで通用するのかどうか
といった問題は、いろいろと実証していく必要があるものだけどね。

> なお、同書p.87には次のような記述もある。
> ***
> 私たちは日本人として日本語共同体の中に生まれ育った以上、日本語的思考か
> らも逃れられなければ、日本語的分節の仕組みからも逃れられないのである。
> ***
> ソシュール的思考は、むしろ言語とそれを使う人との関わりを強く意識するも
> のだよ。

その本の著者は丸山圭三郎さんだよね。それって誰の意見として書かれてあるところ?
丸山圭三郎さんの本をいろいろ読んだけど、彼の立場はソシュールを越え出ていて、
さらにラジカルな考え方をしていた人だったね。

彼の立場は欧米の科学観と欧米の個人主義を普遍視する見方を疑うものだった。
彼だったら>>934のような疑問をあなたがたに突きつけたんじゃないでしょうかね。
共時的本質をもつ言語が果たして通時的に比較できるかどうかにも彼は悲観的な発言をしていたし。
その見解から導かれるのはむしろ現象学的世界観と同じ主客融合の世界観ですよ。
彼だったら言うはず。日本語だけが主客融合的ではない。すべての言語は同程度に主客融合だと。
942名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 22:48:22 0
>>937
> 同書でも再三注意されているが、ソシュールの言う「恣意的」ということばを勝
> 手に拡大解釈するのはやめようね。

丸山さんに対して、ソシュールを拡大解釈したという批判が根強くあるのを知っている?
んまあ、丸山さん自身もそれを承知の上だったようだけどね。

> (ソシュールの「恣意性」とは、「本能的な必然性はない」という意味だそうだ
> ね。もしそれがあれば、人間の言語は一種類しかありえなくなる。)

それは要するに、記号のシステムがそれ自体で環境(その他のシステム)から自律している
ということだよね。つまりその意味で記号システムが相対的に閉鎖系であることを意味している。

> 「言語に先立つ観念はなく、言語以前には、何一つ明瞭に識別されてはいない」
> (p.80)というソシュール的考え方をどう考えているのだろうか?

正確にはそれは「記号」のことではないのかな?
ソシュールは、言語は記号の特殊なケースの一つにすぎないとも言っているからね。
記号は音のイメージである必要も文字である必要もない。身振り手振りであってもいいわけ。
943名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 23:00:04 0
>>940
>ソシュールのいう意味での言語記号のことだよ。
>事物から独立・自律して成り立つがゆえに恣意的なシステムとしてのラングのこと。
あなたの言う意味での「事物」からは独立しているかもしれないけれど、
そのラングを使用する人の「世界認識」とは不離でしょうが。

>そちらの言い方を借りれば、言語システムは原理的に主客融合的だということ。
(…)
>個が全体以前に成り立つのではなく、全体があってその中での対比関係によって
>はじめて個が成り立つ、ということを言っているわけだね。
あなたが「主客融合」ということばをどう使うかは自由だけれど、↑で言われている
「主客融合」は私の言っているそれとは全然別物である事は言っておきたい。
私の言っているのは、一人称が三人称(社会)との関係性よりも、二人称(ウチの人)と
の関係性を色濃く持とうとすること。(>>714)

>>941
>著者である丸山さんはそこで「事物」という表現を本当に使っているのかなあ?
はい。
>彼だったら言うはず。日本語だけが主客融合的ではない。すべての言語は同程度に
>主客融合だと。
そのあなたの予想は、>>937に引用の同氏の発言によりはっきりと否定されていますが。
なお、その発言は、ソシュールの言う「二つの恣意性」を解説する文章の中で、
ソシュール的な考え方の具体への展開として示されたもの。
944名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 23:18:19 0
>>938
> 中世末期までさかのぼれば、「やる・くれる」の対立は成立していたようでは
> ないか。(>>928

はっきり言ってしまえば、その時代になって《から》(←ここ重要)ね。
世界でも珍しいその日本語の特徴なるものは、少なくとも平安時代の日本語には適用できない
ということが、どうやら言えそうだということ。

中世の初めから中世の末期にかけていったい何が起こったんでしょうかね?
そちらの仮説との整合性を考えるなら、互酬性の原理に支配されていなかった平安の社会から、
互酬性の原理に支配される近世以降の社会へと移り変わった過渡期ということになるんでしょうか。

> 中世末期も十分に「古い」よw。

その話の文脈からすると、レヴィ=ストロースの文化人類学との関連で「未開の社会」を問題に
していたんだから未開社会の段階まで遡らないといけないはずでは?
中世末期といえば近世直前でしょ。近世はもはや江戸時代だからそんなに古くはないよね。

> 時代をさかのぼればさかのぼるほど互酬性が強くなるなんて、誰か言ってたか??

その点は認めるんですね?
「前近代」という概念で一括りにできなくなってきてややこしいねwww
945名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/09(木) 23:53:36 0
>>943
> あなたの言う意味での「事物」からは独立しているかもしれないけれど、

「あなたの言う意味での事物」とは?
そこでは言語記号システム外を指して「事物」と言っているつもりなんで、
「他のシステム」と言い換えてもいいですけどね。
他のシステムにはもちろん言語記号以外の記号システムも含まれますよ。

> そのラングを使用する人の「世界認識」とは不離でしょうが。

意味論的にまではともかく、認識や知覚のシステムまでも未分化であると?
果たしてそこまでソシュールは言っているのかなあ。
むしろ反対に、ラングはそれ自体の恣意的な、つまり自律的な一つのシステムとして
成り立っていて、他のシステムとは少なくとも積極的に関与する関係にないことを、
ソシュールはその恣意性という概念をもって言っているのでは?
サピア=ウォーフ氏らはそこを誤まって解釈して真に受けてしまったのではないだろうか。

> あなたが「主客融合」ということばをどう使うかは自由だけれど、↑で言われている
> 「主客融合」は私の言っているそれとは全然別物である事は言っておきたい。
> 私の言っているのは、一人称が三人称(社会)との関係性よりも、二人称(ウチの人)と
> の関係性を色濃く持とうとすること。(>>714)

だとすると、それが主客融合にどう繋がるの? それが主客融合に結びつくという発想なんでしょ?
「二人称=ウチの人、三人称=社会」という図式もどうも分からない。
それもただあなたが私意的に決め付けているだけでは?
946名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 00:13:13 0
>>943
> >著者である丸山さんはそこで「事物」という表現を本当に使っているのかなあ?
> はい。
> >彼だったら言うはず。日本語だけが主客融合的ではない。すべての言語は同程度に
> >主客融合だと。
> そのあなたの予想は、>>937に引用の同氏の発言によりはっきりと否定されていますが。

なんでそうなるの。その引用箇所のどこが否定しているのか意味不明。
日本人が日本語に制約されていることの主客融合性について語っていると解釈できるとしても、
一方のラングのほうが他方のラングに比べ、より客観的で、要するに恣意的でないなどと、
そこで丸山氏が言っているようには到底解釈できないけどなあ。
もしそうだとするなら、恣意性という概念は記号システムの一般公理としては否定されてしまうでしょ。

ラングが恣意的だというからには、英語より日本語のほうがより客観的(恣意的でない)言語だとか、
日本語より仏語のほうがより客観的(恣意的でない)言語だとか言えないことを意味しているはず。
丸山氏にいたってはそのことが殊更に強調された上で、西欧文明中心主義が批判されることになる。
947名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 00:26:33 0
ソシュールは「内的言語」と言っているようだから分かり難い。
内的言語はイコール英語や日本語や独逸語といったものを意味するのか?
948名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 00:35:05 0
どうでもいいから一般言語学講義ぐらい読んでから話しろや
そもそもあれも弟子どもがまとめたもんであって本人が書いたもんじゃねーけど
949名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 00:40:20 0
ハエが分節する記号(身分け構造)と、ヒトが分節する記号(身分け+-言分け構造)の
どっちがより客観的かなんて言えない、とまで丸山さんは言っていらしたよねえ。
トカゲよりもヒトのほうが客観的に世界を見ているなんてことはないんだと。
ここまで来ると、言語相対論の強い仮説を越えて、知覚相対論の強い仮説になる。
950名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 01:07:52 0
実在論の理解ひとつをとってみても、
主客融合論者の都合のいい解釈がひどいことがわかるな
951名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 11:43:16 0
>>944
平安時代の日本人は近代的で持ちつ持たれつの気持ちなど持ち合わせていなかったのだ!
そして、のちに未開人となっただけなのであーる!

ということを言いたいんだろうw
952名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 11:53:19 0
>>951
なぜ、そのような100:0の単純極まりない話に持って行こうとするのかねw?
それに、平安時代の日本語は、五文型的な文の構成、その連鎖において、
相当に「未発達」だよ。
953名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 12:01:46 0
「やる・くれる」の語が分節されていないほうが未発達なのか、より発達しているのか、いったいどっちなの?
あなたの頭の中では。
954名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 12:19:28 0
「やる・くれる」を落ち出しておいて今更「それは例外です」なんて言わないよね?www
955名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 12:31:30 0
落ち出して→持ち出して
956名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 12:38:52 0
>>953,>>954
仮に終助詞や相対的人称詞や敬語の使用が「主客融合性」と結びついているとし
て、ことばを覚え始めた幼児はそれらの表現を使うわけではないけれども、
大人と比べて幼児のほうが独立性が高い(=「主客融合性」が低い)、などとい
う単純な議論はできない。
957名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 12:49:19 0
「やる」「くれる」の話なんだけど…、
閉鎖的で余裕のある上流社会では、
少しでも高い評価を得ようと競争し合って
敬意表現や恩恵表現がどんどんエスカレートしていくのでは。  (平安朝の十二単みたいに)
958名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 12:59:05 0
あと、「互酬性」だけど、
経済学や人類学の世界では「市場経済」になる前の
前近代的な交換形態のことを「互酬経済」と言ったりするらしいね。

アメリカ的な市場原理主義や経済至上主義を一方的に批判してる人って
非現実的な「互酬経済」を理想にしていたりするのかな。
959名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 13:06:21 0
「互酬性」って、良く言えば
「お互い様」とか「持ちつ持たれつ」になるけど、悪く言うと
「わいろ」とか「談合」とかになる訳で。

「互酬性」もプラスとマイナス、両面見ないとさ。
960名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 13:16:54 0
>>957
その一方で、
日本語は「主客融合する」(心を一つにする)ための一つの手段にすぎない、
みたいなところもあるよね…。

「不立文字」「以心伝心」「あうんの呼吸」「察しの文化」とか…、
あと、小津安二郎の映画みたいに「あぁ」とか「うん」とかだけで
コミュニケーションが成り立つ世界を理想にしているようなところもあるよ。
961名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 13:36:53 0
>>952
あんたにとっての「言語における発達」ってなんなの
その社会において円滑なコミュニケーションを形成するために最適化されていく
ということが言語における発達ではないの?
962名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 13:38:44 0
くれる・あげるの分化→退化という図式ですか
963名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 14:14:06 0
>>957
あと、中世末期になると
異質な人間同士が接する機会が増えたために、
心を一つにするための手段として、自然と日本語の互酬性が強まった、とかね。
(時代的にこっちのほうが説得力があるかな?)
964名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 14:30:00 0
自分を説得する説得力はあるということだね
965名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 16:59:43 0
様々な観念にそれぞれ細かく名前をつけていく
というのが「言語学における言語の発達」の意味とするなら、
くれる・あげるを言い分け、
蝶と蛾を分化して言い分ける日本語のほうが、
普通言い分けないフランスなどより発達してるということになるわな。
「主客融合」や諸々に続き、またしても「言語未発達」の定義をあやふやなままにして
その言葉のラングの分化を無理矢理押し付けようとしているように感じる。

自分の認識内ではそういう意味があるから、という理由だけで
うなぎ文的英語で英語圏人の店員に「アイアムアンイール」などと注文してごり押しするのと似てるね。
あなたの脳内別人や、似たようなラングを共有している「あなたムラの住人」となら仲良く同意しあう議論もできようけれども、
ここでもそれを押し通そうとするのは、身勝手というものだと思う。正確な意思疎通はできない。
まず「その音声でも文字でも、それらが何を意味するものか」を、何度も別の表現をしたり、状況と何度も照らし合わせたり、
文での発表なら注釈をつけるなどをして、互いの認識をすり合わせることによって
正確に近い意思疎通をしていこうとするのが、議論の始まりには欠かせないのではないのかね。
議論をする気でいるのならの話ですけど。

こちらとしては、急に「未発達」なんていう言葉が使われても、「どういう意味の?」としかなりません。
966名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 17:16:40 0
主客融合論者さんはそこで必ず決まって「・・・にも二重定義があるね」と
自分の定義に二重定義を施すことで逃げちゃう。ww

二重定義しなきゃならないってことは、自分の用いている概念の定義に
論理的一貫性がなく、アヤフヤな証拠でもあるのにね。
967名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 18:13:41 0
>>945
>> あなたの言う意味での「事物」からは独立しているかもしれないけれど、
>「あなたの言う意味での事物」とは?
あなたは「自存的所与」(後述)を「事物」と言っているようだね。

>> そのラングを使用する人の「世界認識」とは不離でしょうが。
>意味論的にまではともかく、認識や知覚のシステムまでも未分化であると?
>果たしてそこまでソシュールは言っているのかなあ。
あなたのような理解では、ソシュールの言うシニフィエ(概念)の居場所がな
くなると思うが、どうよ?
ソシュールの言うシーニュ(言語記号)とは、「シニフィエとシニフィアンの
から成る不可分離の言語的本質体」(『小事典』p.306)だよね。

『ソシュール小事典』の「fait[事実]」の項を以下に抜き出しておくね。
賛成するかどうかはともかくも、ソシュールは「そこまで言って」るよ。
***
言語的事実とは客体としての自存的所与ではなく、《視点 point de vue》(共
同主観)の産物であり、事物(chose)、対象(objet)とほぼ同義に用いられる。
「かりに心理的実在と音声的実体があったとしても、この二者の系が言語的事
実を生み出すことは、一瞬たりともあり得ないだろう。」(frag.3323.4)
事実はあらかじめ与えられているものではない。「まず存在するものは視点だ
けであり、そのおかげで事物が創られる。(…)いかなる事物もいかなる対象も、
一瞬たりとも即自的に与えられてはいない」(frag.3295a)
※frag.〜:エングラーの断章番号
968名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 18:52:31 0
>>942
>> 「言語に先立つ観念はなく、言語以前には、何一つ明瞭に識別されてはいない」
>> (p.80)というソシュール的考え方をどう考えているのだろうか?
>正確にはそれは「記号」のことではないのかな?
>ソシュールは、言語は記号の特殊なケースの一つにすぎないとも言っているからね。
>記号は音のイメージである必要も文字である必要もない。身振り手振りであってもいいわけ。
?????
『小事典』の「シーニュ/シニフィアン/シニフィエ」の項を引いておく。
***
 一般には「自らとは別の現象を告知したり指示したりするもの」をシーニュ(記
号)とよび、そこには図像、指標、徴候、象徴なども含まれるが、ソシュールに
おけるシーニュはシニフィエとシニフィアンから成る不可分離の言語的本質体
をさす。
***
『小事典』の言っていることが正しいならば、あなたは無茶苦茶いい加減なこ
とをいい散らしていることになるよ。

>>946
>なんでそうなるの。その引用箇所のどこが否定しているのか意味不明。
失礼。それは確かにおっしゃるとおり。
ただし、丸山氏が(そしてソシュールも)、言語と思考の関連を強く意識してい
ることは確認しておきたい。

>一方のラングのほうが他方のラングに比べ、より客観的で、要するに恣意的でないなどと、
>そこで丸山氏が言っているようには到底解釈できないけどなあ。
この部分は、どうもあなたには誤解があるような気がする。
「うなぎ文」が話題になったときも、前後の文脈を参照すれば意味は確定するん
だと強調していたけど(>>806)、何も日本語は意味プーの【恣意的】で主観的な
言語とは言っていないので。
その状況の中で意味が成立し、伝達が成立したとて、それは当方の主張と抵触
しない。
969名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 19:13:38 0
>>961,>>965
当方が「未発達」を使ったのは、>>931>>952
見てもらえば分かるように、日本語全体に対して「未発達」と言っているので
はなく、日本語の中のある側面に対して言っている。
ある表現が幅広く用いられるようになることを指して「発達」と言ったつもり。
なんか過剰に反応していただいているけどw、価値付けの意味合いはないので、
よろしく。

>様々な観念にそれぞれ細かく名前をつけていくというのが「言語学における言
>語の発達」の意味とするなら、
そんな馬鹿なこと言っている言語学者、いるんですか??
970名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 21:39:40 0
>>967
だから、そこでソシュールが言っているのは単に、
シニフィエとレフェランとがイコールの関係、つまり反映の関係にないという論点では?

例えば日本語のイヌは、タヌキやオオカミを含まないカテゴリーとして、日本語の語彙の体系の
相対的関係内での存在価値を持つのみで、その語彙体系外ではなんの普遍的意味もない。
それはつまり指向対象そのものでもなければ、人間の認識や知覚のシステムの反映でもない。
単に日本語の語彙体系の中でたまたまそのようなカテゴリーを与えられただけという話。
その意味でシニフィエは記号システム内に属し、他のシステムにも・からも関与していない。

シニフィエが記号とそのシステムに属するというのはそういう意味でしょ。
丸山氏はどうやらシニフィエをレフェランとを一体のものと見なす強い仮説を主張してもいるようだけど。
971名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 22:15:13 0
>>968
> 『小事典』の言っていることが正しいならば、あなたは無茶苦茶いい加減なこ
> とをいい散らしていることになるよ。

はて?
その引用文からすると、いったいどのあたりがこちらの主張と矛盾すると言いたいの?

どの部分がいい加減だといいたのか不明瞭なので答えにくいけど、
エングラー氏による『講義』を参照しているようだから、ともかくその断章番号277と290を参照あれ。
リードランジェのノートには、儀礼的身振りが記号の定義に含まれるとする一節があるし。

> この部分は、どうもあなたには誤解があるような気がする。
> 「うなぎ文」が話題になったときも、前後の文脈を参照すれば意味は確定するん
> だと強調していたけど(>>806)、何も日本語は意味プーの【恣意的】で主観的な
> 言語とは言っていないので。
> その状況の中で意味が成立し、伝達が成立したとて、それは当方の主張と抵触
> しない。

その点についてはこちらが主客融合などの定義についての曖昧さを再三指摘しているんだけど。
二人称的三人称的、内閉的うんぬんといった、あなた独自の(?)概念にしても掴みどころがない。
論理的か非論理的かについても、>>748
「ただ、「伝達が成り立つ=論理的」という考え方にも賛成はできない」
と書いているのはあなたでしょ?
こちらが、言語の論理性とはその伝達の透明性以外にどう定義されるのか何度問いただしても
まだ明瞭な答えをいただけていないように思う。

それから、
>>734-735 >>843-844あたりの疑問には答えていただけないのでしょうか?
972名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 22:17:59 0
あわてて書いたので誤字が目立つ。失礼。
連続投稿になるのであえて訂正はしません。
973名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 22:22:59 0
>>969
発達というからややこしい。単に普及と言えばいいだけなのにww
974名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/10(金) 23:10:40 0
>>969
言語学者の誰かが言っていたとは書いていませんよ。
定義不確定でよくわからない広義の言葉を使えば
ああいったように個人的な定義によって、あなたが馬鹿なことと言い放つようなことでも何でも
こじつけでなんとでもそれっぽく言えてしまうということですよ。
「敬語」とは「無闇に他者と馴れ馴れしい融合的な関係にならないため」のものであるからして、
敬語を使う言語は「主客分離的」であり、あまり敬意表現のないとある言語は「主客融合的」である、
とでも何とでもそれっぽいことを言えてしまうということだよ。

「主客融合」や「二者間云々」「内閉的云々」「日本語」「日本人」という、どうとでも捉えられる幅広い言葉を用いて
「日本語と日本人は主客融合的だ」としているあなたに私が感じている馬鹿馬鹿しい怪しさを
同様にあなたは>>965に感じたということ。良い兆候ですね。
これを機に、ご自分の論にそういう所がなかったか振り返ってみるとよろしいかと。
過剰に反応しているというけど、それぐらい言葉ひとつに対して徹底的な定義付けを試みようとしている態度が見えないと
ひとつの論としての正当性を検証すら出来ないし、議論しようとしている人を煙に巻いて小馬鹿にしているような態度
にすら見えてくるのは致し方ないですね。

あら、書き終わって見たら、>>971で同じようなことが書かれていましたね。
ではついでに、>>969>>931を併せると、あなたのいう「ある側面」には「絶対敬語」も含むと普通なら考えられるけど
そこに>>969の「発達」の定義も併せて考えると、「客観主観両側面において未発達な絶対敬語」から「相対敬語」に
なったことで、「客観性主観性両方が発達した」というのがあなたの見解であると見るのが普通の解釈だと思うけど、それでいいの?
今までの流れを含めると、ここにもあなたの怪しいあやふやさが見え隠れしているような気がしてならないんだけども。
975名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/11(土) 12:37:49 0
>>957,>>960
いずれにしても、ここで重要なのは
「giveを二つに分けているのは日本語とマサイ族の言語だけ」(>>926
ってとこだよね。

この事実は、
「日本語は互酬性(主客融合性)が強い」ってことの
大きな実証になるんじゃないかな。
976名無し象は鼻がウナギだ!:2008/10/11(土) 12:40:14 0
>>966
「二重定義」の話をしている人と
「未発達」の話をしている人は別の人なので…、そこんとこよろしくね。
977名無し象は鼻がウナギだ!
>>975  アンカーミス
>>957,>>960>>957,>>960,>>963