>>372 >> 程度性を問題にしている。
>つまり、例外ばかりで全く一般化になっていない。
主客融合性の高・低を問題にしている。
主客融合性の「高さ」を物語るものの提示はできていると思っている。
日本語のほうが「より高い」という主張に対する「反例」にはお目にかかれ
ていない。
>> please や sirは、「使用が義務的」といえるのだろうか?
>義務的な場合がある。そのときは「主客融合」なのかときいている。
そんな「ウナギ文」的な質問のされ方をしても困る。
こちらが証拠にあげている人称詞以下の言語現象は、「表出」部分でも、
「働きかけ」部分でも、「応答」部分でもなく、判断の中核部分(叙述部分・
記述部分)において、対人的なものが義務的に顔を出すもの。
君のあげる例は、対人接触的ではあるが、「働きかけ」や「応答」部分の中の
要素なのだから、それは主客融合性の「高さ」を示すことにはならない。
そんなものは、すでに述べたように、日本語も含め、どの言語にもあるものだ。
稀少性があってこそ、その言葉の特徴とすることができる。
>>「聞こえている」としたら、それは広い意味での聞き手。
>>一連の表現が基本的に「二者間の関係」を反映するものという理解を変える
>>必要はない。
>何があっても「変える必要はない」んだろ w 対者がいったい何人いるんだよ。
>「二者間の関係」でも「主客融合」でもないじゃないか。
相手は一人である必要はない。第三者に対して、「閉じられてる」点がポイント。
「閉じられている」とは、第三者にはその表現が使えない、ということ。
「おいしいね」という表現は、自分と同じように感じている相手に向っての
表現。そうは感じていないものには、「閉じられている」。
「おじさんが手伝おうか?」の「おじさん」は、近所の子どもや親戚の子ども
に向っての表現で、これまた第三者には「閉じられている」。
(例えば、誰に対しても常に「I」の英語と比べられたし。)