なんで正しい日本語ツカエッテいうの その2

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481名無し象は鼻がウナギだ!
(つづき)
>> 終助詞に対応する言語現象が冠詞だと言うのか??
>名詞句が出るごとに聞き手の情報に配慮しているから、終助詞なんて要ら
>ないのではないか。
「聞き手の情報に配慮」と言うが、
冠詞における「配慮」と、終助詞における配慮は、別物だ。
冠詞が表すのは、単語レベルでの聞き手にとっての了解可能・不可能。
そこに話者の【あり方】は関わらない。
それにたいして、終助詞は、文レベルで働き、しかも<話者の認識との関係
において←ここ大事>、同じ認識を相手が持っているか否かに基づき使用さ
れる。終助詞の選択は、話者と聞き手との相対関係によりなされるのだ。
このような二者間性・当事者性は、冠詞には認められない。
当方が、主客融合性(の強さ)を示すものとしてあげているものは、
いずれも、相手への配慮を示すにとどまらず、
「話し手・聞き手」の二者間性・当事者性に深く関わる点に注意されたい。

そもそも、終助詞は会話体に限定され、文章体には原則現れないが、
冠詞は会話・文章に関わりなく現れる。
この違いも、両者が対応するというなら、説明してほしい。
>聞き手が指示対象を知っていると話者が確信できない固有名詞は、
>いきなりは使えない。日本語も同様。
だとしても、実際の聞き手の了解可能性の有無に関わらず、
固有名詞が「定」扱いされる、ということは動かないのでは。
これは冠詞の非二者間性・非当事者性(客観性)を示していると言えないか。
482名無し象は鼻がウナギだ!:2007/06/27(水) 22:36:07 0
>>372
>> 程度性を問題にしている。
>つまり、例外ばかりで全く一般化になっていない。
主客融合性の高・低を問題にしている。
主客融合性の「高さ」を物語るものの提示はできていると思っている。
日本語のほうが「より高い」という主張に対する「反例」にはお目にかかれ
ていない。
>> please や sirは、「使用が義務的」といえるのだろうか?
>義務的な場合がある。そのときは「主客融合」なのかときいている。
そんな「ウナギ文」的な質問のされ方をしても困る。
こちらが証拠にあげている人称詞以下の言語現象は、「表出」部分でも、
「働きかけ」部分でも、「応答」部分でもなく、判断の中核部分(叙述部分・
記述部分)において、対人的なものが義務的に顔を出すもの。
君のあげる例は、対人接触的ではあるが、「働きかけ」や「応答」部分の中の
要素なのだから、それは主客融合性の「高さ」を示すことにはならない。
そんなものは、すでに述べたように、日本語も含め、どの言語にもあるものだ。
稀少性があってこそ、その言葉の特徴とすることができる。
>>「聞こえている」としたら、それは広い意味での聞き手。
>>一連の表現が基本的に「二者間の関係」を反映するものという理解を変える
>>必要はない。
>何があっても「変える必要はない」んだろ w 対者がいったい何人いるんだよ。
>「二者間の関係」でも「主客融合」でもないじゃないか。
相手は一人である必要はない。第三者に対して、「閉じられてる」点がポイント。
「閉じられている」とは、第三者にはその表現が使えない、ということ。
「おいしいね」という表現は、自分と同じように感じている相手に向っての
表現。そうは感じていないものには、「閉じられている」。
「おじさんが手伝おうか?」の「おじさん」は、近所の子どもや親戚の子ども
に向っての表現で、これまた第三者には「閉じられている」。
(例えば、誰に対しても常に「I」の英語と比べられたし。)