【さ入れ】ら抜き言葉をおおいに語るスレ【れ足す】

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493名無し象は鼻がウナギだ!
戦前の文学作品に現れた「ら抜き言葉」

永井荷風(1879年東京) 『をさめ髪』(1899年) 「左団扇と来れる様な訳なんだね。」
葛西善蔵(1887年青森) 『兄と弟』(1918年) 「黙つて随いて来れないのか!」
島田清次郎(1899年石川) 『地上』(1919年) 「そして和歌子さんが同時に二度この世に生まれて来れるものなら」
                            「正直のところぼくの家が貧乏で今までのようにしていてはぼくが学校へ出れないからなのです。」
大杉栄(1885年香川) 『日本脱出記』(1923年) 「よくもこんなに寝れるものだと思ったくらいによく寝た。」
豊島与志雄(1890年福岡) 『人間繁栄』(1924年) 「おい、お千代が間もなく子供を産んで来れるそうだよ。」
葉山嘉樹(1894年福岡) 『海に生くる人々』(1926年) 「感受性を全然失ってしまうものらしいんだ。この兄弟なんぞもやっぱりその一例だと見れる。」
小林多喜二(1903年秋田) 『防雪林』(1927年) 「活動写真は毎日あるし、芝居も見れるし、音楽界はある。公園がある。」
小林多喜二(1903年秋田) 『雪の夜』(1927年) 「それで彼は生理的な発作のようにくる性慾のために、夜通し興奮して寝れないことがあった。」
水谷まさる(1894年東京) 『歌時計』(1929年) 「さくらの花道/花のかげ/むかしの夢が/見れるだろ」
小林多喜二(1903年秋田) 『蟹工船』(1929年) 「いいか、此処へは二度も、三度も出直して来れるところじゃないんだ。」
                             「然しそれでも、うまく帰って来れない川崎船があった。」
小林多喜二(1903年秋田) 『工場細胞』(1930年) 「専務の顔さえも碌に見れない隅ッこで、鉄屑のように働いている森本だったのだ。」
                               「賃銀雇傭という冷たい物質的関係以外に、会社のその一家に対する「恩恵」とも見れた。」
矢田津世子(1907年秋田) 『反逆』(1930年) 「俺ア脳味噌が変ったぜ、世の中の事が表からよりも裏から見れるんだ。」
                            「が、直ぐ彼女はそれを吐き出して再び十字を切り、今度は出て来れない様に重しをのせた。」
494名無し象は鼻がウナギだ!:2008/08/28(木) 20:10:10 0
宮本百合子(1899年東京) 『ペーチャの話』(1931年) 「活動写真をタダで見れるようになるんだよ!」
宮本百合子(1899年東京) 『共同耕作』(1931年) 「ガチャどもは、おじ気がついて、もう一歩も足をとる泥べとの中を前進して来れない。」
宮元百合子(1899年東京) 『ズラかった信吉』(1931年) 「途方もない幸福がありそうなこのソヴェトというところへは来れないんだ。」
末弘厳太郎(1888年山口) 『役人学三則』(1931年) 「そうしてそのいずれをも着れないような大男や小男を兵隊にとらないように」
小林多喜二(1903年秋田) 『母たち』(1931年) 「お前何時頃出れるか分らないかときいたら、ハイお母さん有難うございますッて云うんだよ。」
宮沢賢治(1896年岩手) 『北守将軍と三人兄弟の医者』(1931年) 「急いで、馬を降りようとした。ところが馬を降りれない」
佐左木俊郎(1900年宮城) 『馬』(1932年) 「立派な墓石など建てたって、毎日お墓さ行って見れるもんでもあるめえしね。」
小林多喜二(1903年秋田) 『党生活者』(1932年) 「今日明日にも死ぬかも知れないが、そんな時は一寸でも帰って来れるのだろうか、ときいた。」
                               「これからは今迄のように容易く警察を出れることも無くなるだろうというような考もあったのである。」
谷譲次(1900年佐渡) 『踊る地平線』(1934年) 「辛うじて絵具付(ペインテド)シフォンの襞(ひだ)着物を着れる程度に肥満を食いとめている」
川端康成(1899年大阪) 『雪国』(1935年) 「遊びに来れないわ」
495名無し象は鼻がウナギだ!:2008/08/28(木) 20:12:06 0
横光利一(1898年福島) 『旅愁』(1937年) 「一度来てしまうと、何んでもなく来れるように思えるのね。」
                          「島へ上りましょうよ。もう暫くここへも来れないんだから。」
宮本百合子(1899年東京) 『その年』(1939年) 「もし友さんが来れるようなら、おっ母さんは、お前らが出てもこの商売ずっとつづけて見ようと思う。」
犬田卯(1891年茨城) 『錦紗』(1940年) 「その蚕から取った本絹の着物など夢にも着れない現状を、げらげらと明けぱなしでけなすのであった。」
金史良(1914年平壌) 『玄界灘密航』(1941年) 「自分までが来れない所へやって来て監視されているような、いやな気持になることがままあった。」
太宰治(1909年青森) 『服装に就いて』(1941年) 「私は、未だ一度も見ていない。ことしは見れると思って来たのだが」
織田作之助(1913年大阪) 『起ち上る大阪』(1945年) 「メリケンが怖くてはメリヤスのシャツも着れないという意味の洒落にちがいないと」