“「ら」抜き”をやるのはガキばかりかと思っていたが、
よく注意して見ているといい歳こいた人が…
ただ方言の影響が深い人もいるだろうから一概には言えないが、
聴いていてやはりみっともない。
神戸の人とかは普段は「ら」抜きで話しているな
953 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/10/28(土) 00:00:19
>>952 安心してください。
あなたのほうが何倍も みっともないですから。
954 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/10/28(土) 05:03:39
ここの人たちCORRUPTEDとか聴いたこと無いんだね…
ノイズからプログレまで、幅広い音楽要素を、明確なコンセプトの下、
スタイリッシュに統合する手腕は世界で彼らだけのものだと思う。
彡川川川三三三ミ〜 プウゥ〜ン
川|川/ \|〜 ポワ〜ン ________
‖|‖ ◎---◎|〜 /
川川‖ 3 ヽ〜 < 「あなたのほうが何倍も みっともないですから」
川川 ∴)д(∴)〜 \________
川川 〜 /〜 カタカタカタ
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
/ \__| | | ̄ ̄|
/ \○○命_ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/ ドキュソ氏ね | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
956 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/01(水) 21:57:10
アッー!
>>952 フォーマルな場:ラ入り
日常会話:ラ抜き
これが現代の自然な日本語の使い方じゃないかな。
日常会話でまでラ入りだと方言か堅苦しい人にしか聞こえないよ。
一辺倒に批判するのではなく、TPOを弁えるのが重要、ということだ。
堅苦しい人っていうのはどうなわけ?
959 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/02(木) 23:30:30
>>959 俺は
>>10の言い分には反対だな。
子供の前で使わないとかはおかしいでしょ。
子供だからこそ、社会、つまりは人との接し方をきちんと覚えないといけない。
本当にすべきは、場や相手に応じた使い分け、つまり言葉と、
その言葉がもたらす相手との距離感をきちんと教えるべき。
それをしないから、先生や親相手に同年代の友達に話す時の言葉と
同じ言葉を使ってしまって、関係がギクシャクすることになる。
961 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/03(金) 10:59:13
>関係がギクシャクすることになる。
という一節以外のすべてに賛成です。
963 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/05(日) 18:55:33
ら入り:食べらるっと?
ら抜き:食べるっと?
うーん、ら抜きやったら意味が通じらん。
方言だからだろ?
965 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/05(日) 23:41:33
「言葉は変るもの」という洗脳から抜け出せ。
変らないほうが断然効率いいんだから、「ら」入れで保守していこうぜ。
あと、法則があると楽。
四段活用動詞は「ら」はいらない。あとの動詞は「ら」をつけよう。
見れる、着れる、食べれる、は通用している部分があるけど
決めれる、入れれる、得れれる、はおかしいでしょ。
>>965 いやいや、変えない方が楽だったら変わらなかっただろう。
可能動詞と受身/尊敬を分けた方が理解しやすいという
総意があったから全体的に変わってきたんじゃないの?
ら抜きの許容度は人や地域や世代によるから一概には言えないだろうね。
どうでもいいけど、「得れれる」は「得れる」の間違い。
れれれのれ
968 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/06(月) 06:29:13
ーメン
>>963 「食べらるる」は「食べらるっ」「食べらるー」の様に省略されてきているので、
今後も「食べるる」と省略される事は無いでしょう。
まあ、九州でも将来的には「食べらるっ」「食べらるー」ではなく
「食べれる」を使う人が大多数になるのでしょうが・・・
970 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 01:32:28
>>960 残念ながら、子供はまだ「原則」を習得している段階だから
「例外」を臨機応変に使うのはまだ先の話なのだよ。
>>1のリンク先をよく読んでおくとよかろう。
971 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 02:24:49
土佐弁では「食べれれる」という語形だそうですが、今も使う人います?
972 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 07:11:33
アヌス
>>970 >>1読んだけど、テレビや大人が「ら抜き」のような
「間違った日本語」「乱れた日本語」を使わず
「正しい日本語」を使うようにしろ、という内容だね。
>>1のリンク先の人って言葉遣いの目的を理解してないんじゃないかな。
>>960で言った通り、言葉遣いというのは、相手との距離感や目的に応じて、
場面によって使い分けるべきものだよ。
学校で教えられるものだけでも、尊敬語、謙譲語、丁寧語、美化語など、
場面や話す相手、相手にどう思ってほしいかという目的に応じていろいろあるが、
日常会話でもそれは同じことだ。
>>1のリンク先でおかしいと感じたのは、たとえば「テレビ」とひとくくりにし、
タレントがくだけた日本語を使うのがいけない、と言っているが、
それは番組の内容に依るだろうと思う。
たとえば、大笑いしたいバラエティー番組で堅苦しい日本語ばかりだったら、
そんな番組を見ても楽しくはならないし、意味がないだろう。
逆に、政治・経済などを伝えるニュースや報道番組などで、
日常会話のような日本語で喋られたら、緊迫感が伝わってこない。
「夜空ノ向コウ」にしたって、若者向けの歌、かつ聴いている人に
日常会話のようにそっと語りかけるような歌にしたい、心に届く歌にしたい、
という作詞者の意図があるのだろう。
であるのに、もしフォーマルな日本語の歌詞にしたら、作詞者が伝えたかったことを
伝えられないということになる。
「間違った日本語」「乱れた日本語」「正しい日本語」
こういった先入観にとらわれ、言葉遣いが持つ距離感、堅さ、柔らかさ、
それを理解できないのでは、日本語の持つ表現の豊かさを理解できないのに等しいと思うよ。
だからこそ、違いをきちんと教えるというのが重要だということだね。
974 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 12:10:48
人間は弱い
みんな気付けば知識に殺されてるんじゃないか?
これはほんとにマズイぞ
CD聴くとき先入観とかいろんな考えが邪魔に入るのはマズイ
洋楽板が糞とか、そんなことじゃなく
音楽の聴きかた自体が糞になってきてるんじゃないかと思う
975 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 13:56:06
ら抜き言葉は、ある用法に限っては、間違った日本語ではなくて新しい日本語だと思います。
どういう用法?ちなみに俺は根絶派-容認派-使用派-推進派の四つに分けた場合は根絶派だな。
俺は使用派だけど、場面や相手を選んで使う分にはいいと思う。
ら抜き自体には別段問題はなくて、どこでも同じ言葉遣いしかできないような
言葉の使い分けが出来ない奴が問題なんだと思うな。
>>976 ら抜きは自分より同等か、目下の立場の相手に使う場合のみ正しい表現方法だ
と思います。なぜなら、ら抜きは文字や文章を略することを目的としているか
らであり、新しい略語を目上の人間に対して使うと、失礼に当たる場合がある
からです。また、正式な文書でも使うべきではないと思います。
ら抜きは、それ自体略語であると同時に、前後の文章を省略する役割を持って
います。例えば、単に「見られる」とだけ言った場合、「見る」が「できる」
のか、「見る」を「される」のか判断できませんが、「見る」が「できる」の
場合は「見れる」・「見える」、「見る」を「される」の場合は「見られる」
と使い分けることで、前後の文脈が一切なくともどの意味で使われているのか
判断できます。このような言語としての利便性は、同等の立場間での口語表現
としては積極的に取り入れてよいと思います。
主語を始め色々な部分を略すことができるのは日本語の便利な部分ですから、
会話の課程などで何かを略すというのはある意味で正しい使い方だと思うわけ
です。
>>966 そんな総意があったら誰も問題視しない。
>ら抜きの許容度は人や地域や世代によるから一概には言えないだろうね。
だから保守すべきなのだろうに。
地域はともかく世代は「られる」でも統一できる。
>可能動詞と受身/尊敬を分けた方が理解しやすい
それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
他の言い回しも使えば何てことない。「られる」のみでしかこれらを
言い表せないのような人は国語力が貧困なだけ。
使い分けよりも、言葉の規範性・歴史性を尊ぶことのほうが大事。
>>979 何故「保守すべき」で「統一」する必要があるの?
「言葉の規範性・歴史性を尊ぶこと」のほうが大事なのは何故?
理由が書いてくれてないから納得できないな。
それを言ったら、既に言文を一致させた段階で、
歴史性などとうに捨て去っているぞ。
しかも、その一致させたはずのものが、
しかも、「ら抜き」などのように、再度口語と文語に分かれつつあるのだ。
だいたい、「れる」が可能動詞として通用するようになったからといって
「られる」が可能動詞として通用しなくなるわけじゃあないよ。
古い世代は「られる」しか通用しないが、
若い世代は「れる」も「られる」も通用するなど、下位互換性がある。
>それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
保守すべきなら、当然元々の可能助動詞である「られる」型に
頼ることになるんだけどな。
どうせ、全部の動詞を漢語動詞に変換して「○○可能」にするとか、
似たように動詞句を名詞に変換して「○○することができる」
とかやるとか言うのだろう?
簡便かつ誤解を生みにくい方向へ向かうべきなのに、
元より回りくどくて使いにくい言い方にしてどうするんだよ。
推進派の俺としては
可能はら抜きに統一。
受け身はら入りに統一。
尊敬はほかの表現を使い、れるられるは使わない。
「できる」で事足りないなら。
984 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 20:52:24
下一段または語幹が三文字以上の動詞じゃなければいいよ
ら有りも有り
986 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 22:10:39
卍ハーケンクロス
987 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/07(火) 23:09:07
そろそろ次スレのスレタイを考えよう
「2」を付けるだけでいいだろうが
念のため
>>980 >「言葉の規範性・歴史性を尊ぶこと」のほうが大事なのは何故?
コミュニケーションの手段としては二者間の言語意識の一致が第一。
一方が言葉の形を変えたり意味を追加したりすると、不一致が起る。
ある小集団内における符牒のようなものならば事は小さいが、公に出すとなると話が違う。
言語によって経営される社会というものは、そういった不一致によって崩れてしまう。
大規模に言えば、多言語国家はそれぞれを取りまとめるのに苦労し、
小規模に言えば、言葉遣いによってそうなる。
特に俺が問題にしたいのは、この「られる」が共通語の「られる」であるということ。
共通語は、国民が統合するための絶対的手段であるからであるから、永年変容しないほうがよいのは当然である。
その際に規範となるものは、歴史しかない。新しい感覚は無用な混乱を生むだけである。
俺は何も「ら」抜きだけで社会が崩れるとは思っていない。
ただ、「ら」抜きを許容するその態度が、今後そういうものを引き起こすのではないか、と思うからそう言っている。
「楽だから」という身勝手な理由で言葉を変容させるのは、言葉が共有財産であるという意識がなく、また公という意識もない。
しかも日本語は長い歴史を持つ言語である。そういったものに自分の感覚や意見を反映させようとする意識こそが危うい。
社会を崩れさせる要素を持っていると思う。
また、さしたる信念・学術的論拠がないままに「ら」抜きを用いるならば、
他の「乱れた言葉遣い」や、将来起るかもしれない他の「言語意識の不一致」を糾弾することはできない。
なぜなら「ら」抜き使用者は、自分の感覚と意志とによって言葉の公を離脱したからである。
(988のつづき)
>既に言文を一致させた段階で、 歴史性などとうに捨て去っているぞ。
それは表記の問題。だいたい我々は文語体を捨てたわけではない。使わなくなっただけ。
互換性について触れているが、これと同じで、日本語をどのように表記するかであり、
全く通じなくなったのではない。今すぐ容易に学べて、しかも判読できるのに、それを
歴史性がないとは言えない。
>簡便かつ誤解を生みにくい方向へ向かうべき
「ら」抜きのみを見ていれば「簡便かつ誤解を生みにくい」かもしれないが、
他の語への影響を考えれば、「ら」抜きと言う前例のせいでいろんな符牒が飛び交って、寧ろ疏通の困難を生みかねない。
本当に効率よくしたいのなら、他の「難解で誤解を生みやすい」言葉も一緒に、研究と洗練を重ね、国家の名の下に、
国民に使用を強制して公布すべき。それでこそ「ら」抜きの意義も認められる。
しかし言葉は歴史と慣用とによって現在の形になっているわけだから、そんなことはできない。
ならば徹底して保守するのが「簡便かつ誤解を生みにくい方向」なのではないか。
>>それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
>保守すべきなら、当然元々の可能助動詞である「られる」型に
>頼ることになるんだけどな。
これがよく分らない。もう一度説明をお願いします。
長くてスミマセン。
>>988 >一方が言葉の形を変えたり意味を追加したりすると、不一致が起る。
これは、言語の発展そのものを否定する内容だね。
言語の発展とは、ある時点では無かった概念を、
音韻の変化や、元の意味からメタファー的に別の意味への転用をしたりすることで、
新たに語を作ったり、既存の語の転用で補ったりして理解できるようにしてきた。
変化を否定するということは、日本語や、その背景にある
日本語話者の文化における新たな概念の発生を阻害するということ。
日常用途に耐えうる言語でなくなるとき、その言語は死語になる。
>共通語は、国民が統合するための絶対的手段であるからであるから、
>永年変容しないほうがよいのは当然である。
当然かどうかは↑の理由から疑問だな。
中央集権国家の運営には、最大公約数的に、中央からの伝令が
末端まで伝わるレベル、つまり、公共の機関を利用できる程度に
通じれば問題ないのでは?
>ただ、「ら」抜きを許容するその態度が、今後そういうものを
>引き起こすのではないか、と思うからそう言っている。
そういう意味では、俺は「ら抜き」が本質的な問題ではないと思っている。
何度も言うように、場や相手や目的に応じた、言葉遣いの使い分けが
できない人間がいるということが問題なのだと思う。
>しかも日本語は長い歴史を持つ言語である。
>そういったものに自分の感覚や意見を反映させようとする意識こそが危うい。
使う人あっての日本語。
だいたい、奈良時代の日本語なんて今じゃ専門家以外には通じないよね。
江戸時代の言葉なんてイマドキ喋ってたら笑われるだろ? マルシアとか。
>>989 >だいたい我々は文語体を捨てたわけではない。使わなくなっただけ。
使わないということは、専門家以外にとっては死語ということだよ。
昔はそれが正しくても、今使ったら笑われるか変人扱いだろう?
>他の「乱れた言葉遣い」や、将来起るかもしれない他の
>「言語意識の不一致」を糾弾することはできない。
乱れてるというそれも、こういう場面ではこういう、という慣習でしかないよ。
フォーマルな場ではこういうんだ、という意味で注意することはできるかもしれないけど、
「正しい日本語」というものは幻想にすぎない。
>本当に効率よくしたいのなら、他の「難解で誤解を生みやすい」言葉も一緒に、
>研究と洗練を重ね、国家の名の下に、国民に使用を強制して公布すべき。
認知言語学やれば分かるけど、辞書に載ってる語も、文法にも、
使用法の許容度みたいなのが際限なくある。
それこそ、世代や地域や生活環境によっても個人毎に許容度にずれがあるだろう。
解明する研究なんて万年あっても終わらず、それをやっているうちに
元の言葉のほうが変わっていってしまうだろうね。
また、それを意識的に全て覚えるなど不可能。
それこそ非効率極まりない。
そもそも、言語自体がそういった厳密に規定して押しつけできる
性質のものではないのだから、最大公約数的に、
学校で教えてる程度の日本語で十分だろう。
マルシアは、月曜夜8時、6chの日本語だろ
>>989 >>それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
>保守すべきなら、当然元々の可能助動詞である「られる」型に
>頼ることになるんだけどな。
元々の標準語では、語幹末が母音なら rare、
語幹末尾が子音ならareが可能の助動詞を表す最もフォーマルな形だ。
「使い分けを「られる」のみに頼っているから」
とは言うが、保守して変えるな、というスタンスなら、
その「られる」こそが最もフォーマルな形なのだから、
「られる」型の可能表現をを使わないと、
フォーマルな日本語としてはおかしいわけよ。
要するに、あなたの言っていることは自己矛盾しているということ。
>>992 ああいうのも一応歴史的考証の上に当時の言葉遣いを再現してるんでしょ?
言葉は世につれ人につれ。
個人がどうあがこうと変化は止められない。
目くじらを立てていても時間の無駄。
皆さん変化を受け容れて楽しみましょう。
996 :
名無し象は鼻がウナギだ!:2006/11/08(水) 05:25:15
またキモい言語オタクが襲来してますね
すべての可能ラレがレに変わっているのなら、ラ抜きを認めてしまってもかまわない。
しかし、「?居れる/○居られる」「*信じれない/○信じられない (>信じらんない)」のように、レに変わっていないラレもまだある。
ラ抜きを正用と認めると、ラ抜きが使えない場合を例外として説明しなければならず、文法が複雑になる。
ラ抜きは認めないとする保守的な方針を採るのも、現在の段階ではやむを得ないだろう。
終
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