日本語ってすごいな

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10名無し象は鼻がウナギだ!
一応、研究職の人間で、最近英語もやっているんだけどさ。で、考えるときに
ずっと英語で考えてみようとかやって、英語の文章を思い浮かべつつ、なんか
考えている感じがしていたりする。で、そのときに英語の表現ちゃんとおもい
ついて、「おお、おれも英語できるようになったじゃん」とかおもいつつ、
こんど同じことを日本語で考えてみようとおもっていると、日本語があんがい
表現できないんだよな。頭にうかぶのは、「これがこうだろ、で、そうだ!」
「あ!あれ?うーん、変だな。ちがうか。いやあ、どうなんだろ」みたいなの
ばっかりで、論理的思考をする日本語のマトモな文章。たとえば、英語で幾何学
的なことを考えて、A is behind B. When A has a certain interaction with B,
the motion of B would be influenced or restricted by A. みたいなことが、
日本語で考えているときって、「えっと、これはこうだろ、でこうだよな。うーん、
だったらどうだろ」みたいな日本語しか頭に浮かばないわけ。
案外、ネイティブの英語の人っていうか、そういうのも、考えるときってば、
"This guy may... but.. No, funny. well. OK, hmmm. difficult. .."
とかやっていたりしないかな。
11名無し象は鼻がウナギだ!:2006/06/24(土) 14:53:30
文法から入った外国語は、それなりに論理的にみえる。
文法を構成するので、自然に意味のつながりを考える。

会話から入った母語は、自分の思考に邪魔されて、非論理的な文でも何でも構成してしまう。
12名無し象は鼻がウナギだ!:2006/06/24(土) 15:07:05
>>11
とするとだ、>>8のいうように、「日本語は思考言語として優れている」
というのは、たんに、
「うーん、そうか、あれ?いや、ちがうな。これはこうで、これが、、
うーん、どうかな。あ、そっか。そうだよなあ。やっぱりだめか」
というような表現が非常に豊富だということか。

アメリカ在住の中国人研究者が研究室では英語をつかっているとして、
研究に対するシビアなことを考えているときに、
「這是、没有。、、、雖然。没有。。。」
とかやっていないとはいえないと思うんだよな。ノーベル賞をとった
リーとかヤンとかもふくめてだけどさ。

大学で、理論物理の講義のときに若手の助教授の発した文章なんていう
のは、
「でいいか、この式の右辺をこっちの式のこいつにほうりこんで、で
全体を規格化すると、こうなるだろ」
みたいな教え方だったな。

たしかに、ノーベル文学賞の場合は、確実に言語の表現力があって、し
かも、それがサイデンステッカーみたいな迷訳のできる人に訳された
結果っていうのがあるんだろうけれど。
1311:2006/06/24(土) 15:46:20
いやいや、母語が非論理的だとかそういう意味ではなくて、また日本語が云々という意味でもなく、

文法から学び始めた外国語→表現するときに文法を考えるので非論理的な表現はそもそも困難(表現方法を文法に照らし合わせて決定するため)。
日常生活から身に着けた母語→論理的な表現も非論理的な表現も可能(表現方法をフィーリングに照らし合わせて決定するため)。

ということ。

日本語が論理的か非論理的かなんてのは単純に話者によると思う。
話者が日本語を使用して論理的に話せば論理的だし、日本語をつかって非論理的なことを言えば非論理的。

たとえば、>>10のような場合、俺なんかは仕事の関係上ドイツ語で思考したりするわけだけど、そうすると非常に論理的かつ説明的なドイツ語の思考ができるわけ。
それで単純に「ドイツ語ってすげーなー」なんて思ったりする。
でも、日本語を学んだドイツ人に会って話をすると
「日本語って本当に論理的ですよね。動詞の活用類型や”い”形容詞と”な”形容詞の分類なんて本当にすごいですよ。
五十音の表を見たときは感動しました。体系的ですよね。それにひきかえドイツ語の適当なこと。ドイツ語も日本語くらい論理的ならいいんですけどね」
なんて言う人もいるわけだ。

結局、母語は表現の幅が広いため非論理的に思える傾向があり、外国語は表現の幅が狭い(しかも大抵規範文法によって制限されている)ため、馬鹿が考えても論理的になってしまうということ。