関東弁の起源は朝鮮語か?

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271名無し象は鼻がウナギだ!
>>268
> メディアでも「〜だった可能性が」とかよく使ってるだろ
私自身も話し言葉では使ってるよ。文章語は別。
「〜だった蓋然性が」と書いて文句を言われる筋合いは全くない。

>>269
>「シナ語を話し、漢文を書いていた」下級役人(書紀クラス?)と
> して一番適任者は楽浪郡、帯方郡の中国人官吏の子孫だろう。
そういった人が「校正係」だったとは思うが、彼らとて直接には中国を知らず、シナ語のネイティヴ・スピーカーとはいえない。
高句麗も百済も唐と対立したので、人の往来は円滑ではなかっただろう。

> そして当時漢字、漢文を書ける役人は現在の外交官や英語通訳・翻訳者と同様で、
>「下級」役人だったのかどうか、特殊技能を持つ上級中級役人だったのかも知れない。
そんなはずはない。話すほうはともかくとして、公文書はすべて漢文だったのだから、下手でもなんでも漢字が書けなければ役人は勤まらない。

> 現地人の韓人に漢字、漢文を使いこなす能力があったのかどうか、韓人に
> とっては外国語なので疑問がある。
フヨ人の王族にとっても外国語だよ。
『三国史記』地理志には次のような「百済語」が見える。( ) の中は意味。
「夫里 (fire)」「沙 (new)」「勿居 (bright)」「毛良 (house)」
これらの語は現代朝鮮語の bul, sae-, malg (da), malu に容易に引き当てられる。
このことから、百済では朝鮮語が広く話されていて、『三国史記』のインフォーマントになるような階層でも、日常生活では朝鮮語を話していたと推測される。公的な場ではシナ語だっただろう。
清朝末期の満州人の多くはシナ語しか話せず、15世紀以降の英国では、支配層でも英語しか話せなくなった。
百済のフヨ族もフヨ語は話せず、朝鮮語とまずいシナ語しか話せなかったということは、十分に考えられる。

> 百済にもそういう通訳、書紀階層に中国系百済人が居たと
> 考えられ、渡来人に漢人が見えるのもこれらのクラスの家系が含まれると
> 思う。その代表が王仁博士だろう。
彼らはその道のプロだったので、名前の残った人もいるわけだが、漢文ができたのは彼らだけということはない。