joe satrianiのmidnight、途中から速くて
耳こぴ出来ないよう
へーか、教えてくださいm(__)m
626 :
仇鱒:2008/08/29(金) 20:32:25 0
こさかなの弟分、おひさでつ(でもないかなw
で、禿頭のサトリアニが弾く真夜中だけど、あれは耳コピ無理じゃないかな。
ライトハンドってそんなに難しくないけどアノ真夜中はちょっとやそっとじゃ
耳コピはともかく弾くのもムズいんじゃないかな。てか、耳コピわしチョー苦
手だし。
てか、誰か「悲壮感」の曲 耳コピしてココにコードうpして栗。学生が「仇せ
んせっ!悲壮感のギター演奏キボン♪」とゆってきてるんだな。うむ。で、最
初はなんとなくAm-F-G-C-E7ぽいのは分かるんだけど、できればイントロから
全部コード教えて栗。てなことで、耳コピプロの虚無ちょーかん、もしココ見
ていたらヨロでつ。はい。
てなことで、まだシャバがいろいろ忙しいからちょいとまたリアルライフにゴー
バック。うむ。
ひさしぶりにきたのだ尿。
どれが書き込みボタンなのか忘れてしまってた…(Janeで)
えーと、耳コピについては、この曲はざっと聴いたけれど、
それほど難しいようには思えないにゃ。
たぶん難しくなってくるのは、dm-a7-gm-a7??のように展開していくとこか、
と思うんだけど、まず、トップの和声が3度で繰り返され、そのウラハクで
低音部がはさまっているわけだから、それぞれ異なる「郡化grouping」をなして聞き取ればいいのにゃ。
つまり、2声としてききとれば、それほどフクザツな構造ではないと思うのだにゃ。
ところで耳コピってなに。わたしは「完コピ」と区別して使っているだけだけど…
だいたいの和声進行が捕らえられれば耳コピで、完全にボイシングまで特定して
スコアに書き下ろせる状態になるのが完コピ、という解釈。どういうわけか、それで意思疎通できてた。
わたしはギターができないので、そもそも完コピは不可能で、ピッチの同じギターの音に対して、
何弦を使っているのかまで特定できる人たちはすごいと思うにゃ。
さて何の話をしてたかと振り返ると、「泥臭いサウンド」の話か…
わたしは、基本的に演奏もできないのに音楽評論化が「知的だ」とか「洗練された」だとか、
テキトウにレッテルばりをするのが不快であったが、考えてみると、
もしあるていど多数の人間に同様の印象を与えるのであれば、演奏できるかどうかにはかかわらず、
それはやはり心理学的な事実ではなかろうかと、いまは考えているにゃ。
で、70年代頃楽器を始めて、メジャーセブンスをはじめて弾いて感動した人間は、
(前にも書いたような気がするが)
なぜか、同一の体験をしているように思われる。それは、「泥臭い」のハンタイであった…
あえていえば、「都会的」みたいな響きなのだが…
要するにこのあたりで、音楽評論家とけっきょくのところ同じ心的体験をしているらしい、
といわざるを得ない。そんなとこ。
何か、書き込みをするときに、同意を求められたので、
もう一度読んでみよう…
こんどは、同意画面出てこなかった。
2ちゃんも、日々システムが変化しているのか…
わたしは、微弱な風邪がなかなか直りきらなくて、
日々老化を感じているにゃ。
いつかこのスレのどこかで
アンジェラ・アキの歌が商業主義すぎる、というようなことを書いたが、
それはまちがいだったにゃ。
先日、「拝啓」、ナントカという曲を聴いたけど、ケーデンスのところが、
つまり曲を終止させるところが、基本ミド、ミド…なのである。
これは、ちょっと前の曲の、ミッドドー、ミッドドー、ミドー>『サクラ色』
とおんなじで、これはたぶん、訓練された作曲家はあえて繰り返さない。
ケーデンスのところのコード進行も、基本ツーファイブで何の工夫もない。
これは、商業主義ではなくて…なんというか、
アンゲラの悪口を書くとまたこさかなの先生が気を悪くすると思うんだけど、
この曲はおそらくアンゲラの手作りで、彼女にレパートリーがないのである。
まだまだ旋律の可能性というものがわかってにゃい。中2レベル。
いや、中2くらいのリスナーをターゲットにしているのだから、それでいいのかもという気もするが。
ちょっとゴーマンかました気がするけど、ではまた明日。
(はやくもネタがない予感)
631 :
仇鱒:2008/11/08(土) 20:25:31 0
を、虚無ちょーかん、おひさでつ。で、えっと、わし、今度は「スタンド・
バイ・ミー」をコピってまつ。それはそうと、わしギターをちょいとブツけ
ちゃってちょいと凹んでいまつ(←ギターもちょいと凹んだけど)。なんつ
ーか、ギターをまだ道具と見なすことができていない自分が情けなく感じた
りしていまつ。楽器を単なる道具と見なせるようになってはじめてなんちゃ
ってムージシャンになれるのではないかと思う今日この頃でつ。はい。それ
はともかく、耳コピしていると外国語のヒアリングのテストを受けている気
分になるのはわしだけ?
ギターを意図的に破壊する偉大なムージシャンもいるようなので、
その境地に向かっていくのにゃ。
パフォーマンスという語には、「演奏」という語にはおさまりきれないものがあり、
いわば楽器が肉体の一部に変性していく過程があるのかもしれない。
で、きょうココに来たのは、
【音楽】ビートルズの名曲”A Hard Day's Night”冒頭の音の謎を数学者が解明[11/07]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1226068917/ をみたから、画像を見ると、若干不可解であるが、
まとめていうと、Eをベースとする4度重ねの系列と、
Dマイナー系のコードが同時に発音されているようだにゃ。
低音部で音がぶつかっており、とくにピアノのボイシングが非常に不自然。
左手の標準的なオクターブで、画像の楽譜にあるように3度音程(レ、ファ)
で引くことはほとんどありえない。
が、4度重ね(フォースビルド)というのは、その後の時代でポップスでも非常に多用されるわけであり、
80年代ごろはカシオペアが得意になってこれからは3度じゃなくて4度の時代だ、みたいな、
ちょっと恥ずかしい発言を招くような流れになっているのであり、
そのようないみで、凡庸ではあるが、ビートルズはやはり「時代を先駆けた」といえるかもしれない
(安っぽ…)
ギターのことはわからないが、ピアノの右手が9度音程を弾きつつ、
左手が3度というのはきわめてすわりが悪いのであり、まずこの通りではありえないといえる。
このような非常に密集した和声では、倍音なのか実際に発音された音なかの判別は
やはり困難だと思われる。あ、32行だ。ではまた…
密集するの使い方まちがいてた…
とにかくあるていど低音部でレ、ミ、ファすべてがなっているというのは、
通常ないことであり、「避けるべきである」(楽典の翻訳書にあるような言い方)
和声の密集配置とは、たとえばドミソの和音が、1オクターブ内に順番におさまっていること。
4度重ねがぴんと来ない人は、弦楽器の開放弦が基本的に4度ずつずれていて、
低いほうからミラレソ…のようになっているのをイメージするといい。が、ギターのばあい、
1弦と2弦が半音ずつ低くなっている。つまりそこを半音あげれば、完全な4度重ねになるにゃ。
わたしの予想だと、上のビートルズ和音のいちばん簡略な構成の仕方は、
一人がギターの6弦完全開放音をかき鳴らす。(ミラレソシミ)
もう一人は、完全4度重ねをひく。(ミラレソドファ)
ベースがD(レ)をひく。近似的には、これでおしまい。
じっさいにはトップノートはソであるらしいし、低音部にファがあるらしいし、
さらに12弦ギターがからんでいるようなので、わたしにはわからにゃい。
まちがっているといえば、たしかこっちで「ポニョポニョ」ソングミリオン確定とかいったけれども、
最近のCD不況のせいで、上位ランキングを維持していても、売り上げ総計がミリオンということはまれ。
たしかわたしが最後に見たときには、類型38万枚で、たぶん最近の大ヒットというのはこのくらいかと思われる。
小室のさいきんのCD が2万枚ということで、いかにも落ちぶれ果てた、という書き方をしていた記事を見たけれども、
実際には最近では5,6万枚でスマッシュヒットといわれるのであり、かなり健闘したほうだと思えるにゃ。
さて90年代には100万枚程度では、大ヒットというにはちょっと気が引けたものであったが、
現在では売り上げのケタが2つくらい減っているにゃ。通常の業界であれば、業界ごと消滅しているが、
音楽配信などでよほどサポートされているのか、イベント関連の収益が好調なのか、
なんにしても、いざリアルCD店が消滅したら、ちょっとさびしい気がする。
(バイト的にオーバーしたらしい…続き)
関係ないけど、リアル書店も消滅しないでほしいものである。パソコンでの本探しというのは、
そうしても最初から目的ありきであるから、偶然見かけた本を手にする、というのと似たような
疑似体験をするのはなかなか難しいにゃ。
まるで回顧調の3流新聞のコラムのような内容になた。ほんにゃまた。
>>630 あのミド、ミドから、The Brothers Four の 'Try to Remember' を思い出した。
>>635 あ、はるみシステムのオサーンか…
こっちに来てるのだったら、やっぱブログはこっちだにゃ。
わたしは長年、2ちゃならが特殊集団であるとか、犯罪予備軍であるとかいう見方には反対であったが、
なんだか、最近やっぱし日本人としてはかなり特異な部類ではないかと思っているのにゃ。
きっかけは、単純に筑紫テツヤの死去で小規模ながら祭りが起こったから。
といっても売国ジャーナリストを弁護するわけでもなく、または伝統的日本人の美徳として、
「死者をむち打たない」という理由からでもない。一般的(現代)日本人は、ふつうに死に関する話題で
「ヒク」のである。
たとえ、非常に現実的な池田犬作についても、「池田大作が死んだときには…」と話を切り出したら
まず、まともな返答はかえってこにゃい。とにかく、誰の市に関してでもある。
(「死」というのは、何度使用しても、絶対に変換候補の上位に上がってこないが、これぞまさに日本人的だにゃ。)
とにかく、人が死ぬ話というのは尋常な日本人にとってはドンビキであり、それは、
「今日のウンコはさー…」で話を切り出すにも等しい(らしい)
「死ね」などは、もう言語道断である。「死んだらいいのに」にも、ドンビキ。
その死アレルギーは、たとえ匿名掲示板があろうと、開放されるものではない。
まあ、そのようなわけで、やはりわたしはチャねらであることをこれからは慎重に隠匿しようかと思っているにゃ。
われわれは、ひょっとしたら非国民にゃ。
ちなみに、地区私鉄やの死は、まことに喜ばしい。では、今朝の多事騒音はここまでにゃん。
また来てしまった…もう長いあいだ新聞を取っていないので、チラシがない。
ので、やはりこのスペースしかない。
レーガン死去のとき、アメリカメディアが冷戦を終結させた偉大な大統領というあつかいで
報道しているのを見て、おおげさにいえば、みずからの不明を恥じたにゃ。
わたしは冷戦当時、すでに反共路線のハシリであったものの、なんとなく
朝日新聞は購読しており、ナイーブにも冷戦というのはゴルバチョフ手動で行われたものと、
ばくぜんとした印象報道におかされていたらしい。。アメリカメディアといっても、FOXニュースではないのにゃ。
朝日とCNNのどちらが偏向してるかといえば、そんなの比較するほうがばかばかしいだろう…
ロンヤス関係の当時、共産党系青年組織のアジビラで、
レーガンと中曽根が仲良く戦車に乗って、「さあ戦争おっぱじめようぜ」みたいなばかばかしい戯画をよく見たものだが、
さすがにそれは信じなかったものの、やはりメディアに対して現在ほどには警戒心がなかったというか、
いまでもやはり旧ソ連崩壊までのプロセスというのはばくぜんとしたかたちでしかできないけれども、
そういう無知に付け込んで、メディアは洗脳を遂行できるものらしい。いや、基本的には、不勉強が原因だが、
とにかく自分が不明な点については、安直なメデァの印象操作がないかどうか自戒しなければならない、と思った。
ところで、わたしはいまや共産党シンパなのであった。「大恐慌」のときは、資本主義崩壊のマルクスの予言が的中しつつあると、
共産党シンパは歓喜したものであったが、現在いうまでもなくそのような素朴なかたちで共産主義を再評価しようとするバカは
さすがにいないものと思われる。(昨今まじめに世間のことを知らないのでよくわからないが)
だがしかし、マルクス主義のテキストは、現在読むと興味深いものがある。
じっさい、日本人コミュニティに見られる伝統的な道徳観念、日々食事にありつけるだけでありがたい、(これはべつに日本特有ではないが)
労働ができるそのことだけで「ありがたい」みたいな、
そのような奴隷根性を見るにつけ、やはり「道徳」は破壊せねばならない、という結論しないわけにはいかない。(もしあなたが中2なら)
しまった。たいしたないようでもないのに、オーバーしたにゃむ。
まあ、サヨクというのはこのようなぐあいで危険思想であり、「革命勢力」だったわけであるが、
昨今では、この語はすっかりくたびれてしまい、たんに特定アジア諸国にフレンドリー、
だという意味に置き換えられ、朝日新聞ごときがキョクサなどと称されるに至った。
キョクサというのは、左巻きの人たちにとっては、じつに名誉な称号であるにゃ。
ときどきは、バールのようなもの、でなくバールそのものででアタマかちわられ、
脳みそぶちまけて戦死していったシンサヨクのことを思い出してあげてほしいにゃむ。
わたしもちょっと、バールかなにかでアタマを殴られる必要があるかもしれない、と思う、
今日のチラシのうらであった。次回はサルトルについて。
639 :
仇鱒:2008/11/15(土) 21:02:45 0
>弦楽器の開放弦が基本的に4度ずつずれていて、
>低いほうからミラレソ…のようになっているのをイメージするといい。
>が、ギターのばあい、1弦と2弦が半音ずつ低くなっている。
な、なるほど、、、。うかつにもわし気づかなかった、、、。ちなみに今、
ドロップdチューニングでスタンドバイミーをコピってまつ。レギュラーチュ
ーニングだと弾くのがムズイ。うむ。
>わたしもちょっと、バールかなにかでアタマを殴られる必要があるかもしれ
>ない、と思う
わしは豆腐の角に頭ぶつける必要があるかもしれない。てか、どっちかとゆうと、
納豆に頭つっこんでそのまま3日ぐらい放置しておいた方がええような。うむ。
そうゆえば、ツクシ氏が亡くなったが、ジミヘンのバンドでドラマーだった人も
先日亡くなった。なんとなくぽっかり心に穴の開いた気分。うみゅ。
あ、へーかレスどーもmm(_ _)←ズレタ
明らかに劣化したムージシャンをみるのもしのびないにゃ。
忘れないうちに書いておこうかと思うけど、『言語学大事典』のなかに日本の伝統的 民族歌謡(民謡)のなかに
弱起で始まるものがないという記述があったけど、それは事実とちゃうにゃ。
(弱起というのは、メロディーの先頭が小節のアタマより先行して、弱いアクセント位置から始まるもの。
あまりにも例が多すぎて、なにが好例なのかわからない。
運命「じゃじゃじゃじゃーん」は、ジャーンが小節のアタマで、「ジャジャジャ」はヨワイアクセントの位置。)
あまつさえそれを冠詞の有無と関連付けるのはデタラメもいいところだにゃ。
さて、弱起の民謡のほうは、逆によく知らないために好例が見つからないけれども、
(北海ボン歌とかの)歌いだしの「ハア〜〜」が、「ア」のところに小節先頭がくるところから、まず
楽曲としての日本民謡が、弱起をさけているということはまずありえそうにない。
たぶんハトヤCMに使用されている「まつっしぃまぁ〜のぉぉ」が、「ま」が小節先頭で弱起のひとつの例。
「おどまぼんぎりぼんぎり」も、「ぼん」が小節アタマ。
りんご追分の「りんごーーーの花びらがーーー」は、「ご」がアタマの完全な弱起。(民謡かどうか知らんけど)
弱起なのか、第1小節の非アクセント位置から始まっているのかは、時々判別は難しいけれども、
サイタロウ節のばあいは、「エンヤァトットエンヤトット」と合いの手を歌って、エンヤトットの繰り返し偶数番目で
「まつっし」と歌いだしたほうが自然と感じるのならば、それは弱起と考えてもいいだろうと思う。
で、そもそも冠詞がないゆえにアクセント位置から旋律が始まりやすいという議論がしたいのであれば、
じつは、「第1小節の非アクセント位置」(ウラハク)から始まるのか、「弱起」なのかは論旨に影響しない。
そういういみでは、ユーメイなソーラン節でさえウラハクから歌詞が始まるのである。
まあ、そのようなわけで、さしあたって日本語の音韻体系が、「歌いだしの位置」に影響を与えているという根拠はにゃい。
ちなみに、「8時だよ」で絶大な知名度をもつ「北海盆歌」は、それいぜんは、
とんでもない「ワイカ」として絶大な知名度を持っていたにゃ。
前回の講釈は、文字数制限のために中途半端になってしまった。
『北海盆歌』は、もともと「オマンチョ音頭」みたいな歌詞であったと記憶している。
このようなワイカは、ほとんどすたれてしまったが…いや、いまだにゲイシャ遊びをしている
一部反動ブルジョア分子のあいだには、連綿とうけつがれているのかもしれない。
だいたい「オマンチョ数え歌」とかで、「二つ、風呂場でいたすオソソは…」とか、
「マンコマンコと威張るなマンコ、マンコチンコの植木鉢」といった調子である。どうでもいい。
さて、サルトルといえば有名なことで有名な哲学者であるが、
哲学の一般的理解は、当たり前のことをことさらに分かりにくく言う、である。
が、じつは古典的存在論はほとんど自然科学に問題意義を移し変えられ、
さらに認識論の大きな部分は、ドイツ観念論で大いにはやったが、わたしは基本的には認知科学に置き換わったと思う。
つまり、おおざっぱにいえば、われわれがガクモンだと思っている学問は、もともと哲学的問題意識から出発したものであるといえよう。
現状で「影響力があり」、というか、いまなお読みつがれている「現代的な」存在論という一分野があって、
これは古い世代の人には「實存哲學」、まああたらしめのひとには「実存主義」として知られているにゃ。
このひとたち(哲学者たち)のこまったところは、内省しか方法論がないこと、
言語が思考を媒介している可能性にまったく関心を示さないことと、
いちおう方法論的に確立している脳科学・認知心理学的手法を、
「確実でないものを確実であるとナイーブに信奉している」として、ウイルス感染したファイルみたいに、
その成果を信用ならぬものとして完全隔離してしまうこと(伝統的には「カッコいれ」などといわれている)、などである。
サルトルといえば…わたしはまず思い出すのは「etreを他動詞として用いる」という対自pour-soi存在の規定である。
だがしかし、「無に存在を与える」のは、サルトルは不条理であるとはっきりと述べている。
だとすると、etreの目的(=目的語)は何なのか。
『存在と無』はこのうえなくタイクツな本であるが、言語学的ツッコミを入れると少しは面白いかもしれない。
ツッコミだすときりがないのであるが、ここで、生成批判にも用いた、「心的解釈から対象の同一性をソテイするにゃ」
というテーゼをここでも用いたいとチンは思うにゃ。
またもや文字数オーバーであるが、まあ、一日分はこれくらいにしておくにゃ。
ちょっとムズカシメになったが、心的解釈から対象を同定する、とは、赤いという直観のあるしゅの蓄積から、
けっきょく赤というイデア性を獲得するプロセスのことをいう。
ふつうは、これを<超越>transcendという。用語を日本語にすればわかりやすくなるかというと、
そうでもないという一例がこれである。ではまたにゃむ。
ご無沙汰してますにゃん。
>アンゲラの悪口を書くとまたこさかなの先生が気を悪くすると思うんだけど、
いんや、あの曲はくそみたいな曲だと思うので、あれを評価する人の
気がしれない。
べつのところでひっかかってイルノデスにゃが、「〜のです」
を多用しているのが韻を踏む、ということをサボっているとしか
思えにゃい。大人による日本語獲得過程で「のです」を多用して、
丁寧vs非丁寧を簡略化するということが非常に多く見られるノデスにゃが、
それよりひどいさぼりかたをエンジェル・安芸はしているノデス。
文脈無視スミマセン 続きをおながいします
こさかなの師匠、このような体たらくのチラ裏に書き込んでいただいてかたじけなすにゃ。
わたしはどこかにもかいたけれども、すでに楽曲を有機的な全体として解釈する能力を失い、
メロディーラインだけをもって凡作として評価していいものか、じつにギモンだにゃ。
通常のリスナーにとっては、現代の楽曲は、まず記銘つき
(誰によって作られ、誰によって演奏されたかが、楽曲の同一性に影響を及ぼす)
で、タイトルつき
(たとえインストであっても、作曲家または演奏者のなんらかの「言語的な」メッセージを宿している。
それを読み解くのが評論家のひとつの仕事)
で解釈されるのが普通なので、わたしのように、楽譜情報のみに注目するのは、あまり正しいとはいえない。
楽譜情報的に凡庸であるということは、あるいみではパフォーマンス情報に重点が置かれている、
と見ることもできるにゃ。ほとんどのロックの採譜を見ると、その「凡庸さ」に愕然とする。
ギターをつまびきながらの作曲は、同音連打がはげしく連続することが多く、有線などで「ボーカルもの」を
インストに編曲したものを聞くと、あまりに主旋律が単調なので、やっぱしあぜんとすることがある。
が、とくにメッセージ性の強い歌詞の場合、主旋律はあまり動かさないほうがいいかもしれない、
と思うこともある。同時にそれは、ヒットしやすい要因ともなるのであるが。
「作り手」になると、一般的にふつうのリスナーとしての素養を失ってしまうのかというと、そんなことはないと思う。
あんまり関係ないけど、ポニョポニョの歌を「歌える」ように英訳したもの。
Ponyo ponyo ponyo ponyo baby fish
She came a long way from the sea
Ponyo ponyo ponyo baby girl
With a rounded belly full of glee
そいではまたにゃむ。流浪のスレはまだ続く。
さて、このスレは音楽による<否定可能性>に端を発している。
原理的な意味で、このような否定可能性は、サルトルの思考様式にも深く陰を落としている。
が、底は浅い。
なにぶん、当時の「ゲシュタルト心理学」の影響により、存在と無の関係を「図と地」みたいに考えたがる傾向があり、
(このような傾向は、メルロポンチにもあった)
けっきょくのところ、もし否定が存在しうるとすれば、そもそものはじめから「図と地」のような<形式>が意識に備わっており、
われわれの意識は<無>にとりつかれており、けっきょくわれわれの存在がすでにはじめから<無>によってあらかじめ
あるいみ<呪われている>というようなところが、『存在と無』のひとつの結論である。
そのような存在様式が、<完全充実>した即自存在と対立する対自存在の唯一の可能性となり、ついには評判の悪い
「あるところのものであらぬ、あらぬところのものである」というよーな自家撞着している意識の様式となる、とされるに至る。
以上のような議論は、存在者と存在の区別がわからないと意味を成さないので…きがすすまないけど、
まあ、このさきそこまで踏み込むかもしれない。とにかく、何か書こうとすると、思ったより行数をくうものである。
そこで、結論から先に言うと、このような<無>の起源は、意識が根源的に情報を対象にして言うところから生まれるものなのだにゃ。
<情報>とは、ヌルを入力とすることができるゆえに、原理的には世界における2値的な現象は、
おしなべて論理的回路にすることができるのにゃ。たとえば、わたしがこの部屋にいるか、いないのか、みたいな。
なおかつ、われわれが意識できる対象というのはかかる情報しかありえない。
言語デザインが、あらかじめこのような否定可能性を予測してうまれたのか、あるいはその言語自体が情報処理の産物であるため、
原理的に否定可能性を除去されえないのか、そこのところは非常に難しい問題である。
後者の見解によれば、言語は「コミュニケーションの道具」であるという実体性はまぬかれるが、
そのかわり「生物学的産物」という、生成特有の実体性を帯びることになってしまうにゃ。
まあ、いずれにせよ、音楽の否定可能性を考えたのは、かかる根源的な理由のためであり、(ここでオワリ)
ちょっと前々回あたりいい加減なことを書いたのだけど、
サルトルがetreを<他動詞>として用いる件について、もしも無に存在を与えることが不条理であるとすれば、
この「動使用法」は、ひょっとして成立しないのではないか、というような匂わせ方をしてしまったのであるが、
それはあやまりで、
まずサルトルは受動/能動の関係を<存在者>どうしの関係とみなしているので、存在と無の関係ではありえないわけである。
存在者というのは、文字通り存在するものであり、現象としてより直観的に把握できるものである。
<存在>については、いっしゅ存在者の理解という形で、遠回りに了解されるもの、といったかんじである。
つまり、こういうところで、わかりにくい<超越>というかんがえかたがでてくるのであるが、
まあ、超越というのは、個々の印象を与えられるだけでは、なにも心象も意味も生成されないので、
ちょっとインチキで意識のほうに<本質を求める>ような機能が最初からそなわっていることにして、その結果、
到達できるような、より根源的な存在現象の本性である。
このあたりは、まったくインチキなので、せつめいしていても、じつにむなしい。
ハナシはそれるけれども、70年代にシニフィエ/シニフィアンの訳語が、「意味されるもの」「意味するもの」で確定したけれども、
ふだん日本語の乱れとかナントカに寛容なわたしですら、この訳語はちょっとムカツク。
意味するもの(意味者)と、意味するところ(所意味)、というのがすっきりするのではあるまいか、と、30ねんおくれくらいで言ってみる。
にゃ。
ま、ちょっとアルコールがはいっているので、乱筆ご容赦なのにゃ。シラフでもランピツではあるが。
そいではまた次回も意味不敬路線とばしていくにゃ。
もうみなおしもしないまま、書き込むのにゃ。
ながらくヨーロッパでは、世界の解読と、世界表象(知覚)の解読、そしてくわえるに、
世界表象の表象(言語)の解読、とが混同されてきたにゃ。
言語が学問の対象として自存し始めたのは、じつに最近のこと、現代言語学の誕生を待ってからということになると思う。
そのような中世的な思考の残留物が、じつのところ、サルトルにも現れている、
少なくとも言語が完全に透明であり、思考の「メディアとしてまったく表舞台に現れない、
という消極的な意味であれ、それはじゅうぶん<中世的>であると思うのにゃ。
サルトルの言語への無関心はいたるところにあらわれる。
じつをいうと、前回のレス(落書き)で、存在と存在者の区別についてヘタな議論をしたが、
これにはもっとわかりやすい説明の仕方があって、それというのも、ひっきょうそれは
「存在者は存在する」、という、じつにプレーンな陳述の敷衍であるのにゃ。
ここにおいて、わたしはまったく、「わかりやすいことをことさらわかりにくくする」というご批判について、
まったく返す言葉はない。形而上学のひとつの動機は、主語にはなれるが述語にはなれない究極のもの
とは何かみたいな、究極の述語、究極の主語を求める、といったような問題設定であり
それが「わたし」であったり、「世界-内-存在」であったりするわけなのだにゃ。
そのようなわけで、形而上学のカテゴリである主観/客観が、言語学のカテゴリである主語/客語と
かぶっているわけである。
逆に現代言語学から、伝統的な形而上学にあるしゅのアプローチというか、本当のなぞは何なのか、
解明するためのアプローチが与えられている、かもしれない、少なくとも十分な理由がある
というお話をしたかったのだにゃ。
そしてもし、「存在者は存在する」について、そこにあるのは、「ネコがあくびした」と同程度の
ただたんに言語学的な非対称性しか認められないとなれば、それはそれでりっぱな哲学的回答であり、
われわれは、かかる2500年もやっている形而上学に、最終的な決着をつける勝機があるということになるにゃ。
おおげさにいえば。
言語学的には、「わたし」は<第一人称>であることいがい、ことさら興味を引く問題ではない。
この言語学的判断は、すぐれて哲学的判断と見るオワタ。
虚無せんせ、こんばんにゃ。
昨晩、農家学者と博物学者がれおなるどの新しく発見された絵がうんぬん、という番組を常磐線沿線の宿で見ていたのですにゃが、レオナルドは自然を読み解こうとした、とかなんとかって言ってて、思わず虚無せんせをおもいだしましたにゃん。
私には単に絵が好きだった、としか思えないにゃが・・・
(レオナルドは自然哲学者ではないと思うにゃ)
画家崩れの私としては、画家にはバクハツしちゃうひとと、
執着するひとの二分にかんぜんに分かれると思いますにゃ(パラノとスキゾ?)前者はピカソとか太郎とか、公社はワイエスとか。精神疾患でいったりきたりするひともいるけど・・・
虚無せんせはバクハツ型ですかな?以前の作品とか、楽曲とか・・・ce n'est pas une pipe.とかいわれそうですにゃが・・・
駄文しつれいですた。chomskyは執着型?バクハツ型?
あ。奇遇ですにゃーー。わたしも画家崩れ。
透視画法の話をしようと思ったんだけど、タイクツそうなので、やめ。
簡単に言うと、一般に3点透視といわれてるものは、重力方向で規定される上下と、
身体の必然的でない体勢に左右される左右の概念がごっちゃになっていて、
わたしにいわせればあまり洗練されていにゃい。つまり、たまたま絵を描く人は直立しており、
視線の中心が<地平線>のうえにあるという理想的な状況にちょっと強く依存しすぎていると思うのにゃ。
いわゆる「アイライン」は、消失点の集合と考えなければならないし、もっと「3点透視論」を一般化するためには、
一般に視界のなかの1本の直線はひとつの平面を決定し、同時にその平面状のあらゆる直線の消失点の集合であり、
さらにその平面状の直線を軸にして回転させた平面状の直線の消失点でもあるにゃ。
まあ、もっと一般性を求めなければいけないというお話。結局書いてしまった。
キュビズムというのはけっこう計算されたものではないかにゃ。いわゆるヘタクソな絵というのは、
「見えた」ものではなく理解されたものを描くので、たとえば線路を走る電車が
[ ][ ][ ]
###########
のようになってしまうのだが、少しでも写実的に書くことを訓練すると、このような、
理解したものを描く、といういみでのヘタな絵は、描けなくなってしまう。
これは自明なことではなくて、たんに「絵が上達した」という一言では言い尽くせないように思えるにゃ。
たとえば、英語の発音を本格的にやっても、日本語の発音が英語鉛になるとか、日本人的アクセントが意図的に「できなくなる」
というわけでもない。能力というのは、ある分野では、獲得するというより変容するのではなかろうかにゃ。
そのようないみで、ピカソは、ふたたび「理解するもの」を書くという能力を再獲得したと思うのだにゃ。
再獲得というか、もっと方法論的なものだと思うにゃー。だから、かなり当時の前衛性というのは計算されたものだったのだろうにゃ。
わたしの、いま現在での理解はそんなところ。
また日付が変わったらくるかもしれない。ちょうど行数も限界に来たにゃ。遂行なしで書き込みsにゃ。
虚無せんせ
駄文を広がりのある方向にもっていっていただき、
恐縮でつ。
とくに
>能力というのは、ある分野では、獲得するというより変容するのではなかろうかにゃ。
に感銘ですた。「青の時代」にピカソはキュビズムをsuppressした、と思っていたのですにゃが、
「能力の変容」の方がしっくりくる。
「理解」で思い出したのですにゃが、『ハチクロ』に
「はぐちゃんの目にはどのように見えているのか」
という一節があるのですにゃが、メルポンの
俗化された有名な「見え方は眼の構造に依存する」が
あてはまり、はぐちゃんにも同じように見えてるんでしょうにゃ。しかし、関連性理論で使われるcognitive deviceの状態の変容は常人とは異なり
誤解かもしれないけどこれが虚無せんせのいう「理解」
かと。もちろん、他者問題に対するusual disclaimerは適用されるのですにゃが。
とまれ、虚無せんせが画家であったとはうれしい驚き
で、今日、工房のころの美術部の仲間がきゅれーたー
をやったり八面六ぴの活躍をしているのを知り、
ちょっとタクボクっちゃってへこんでたんですにゃが、
ちょっと上向き。
蛇足:あっしは球体にあらゆる方向から光をあててデッサンしててスタック、受験に間に合わなくなり、勉強しなくても入れる英文科を受験したのですにゃ。だから英語に夢中になれず、いまでも英語は高校生レベル・・・ああまた駄文・・・
てs
アク禁で書き込めなかた…
まずちょっと、いい加減にかいたパース理論を書き直さなければならないのだが、
視界にあるひとつの直線は、それを軸にして回転できるひとつの平面を決定できる、
そして、その平面におけるあらゆる平行線は、最初の直線上に消失点を持つことになるにゃ。
さて、つぎにどの直線を軸に回転したときに、なにが保存され、なにが保存されないかを見る、
というのが洗練したパース理論だ、というようなことが書きたかた。
能力が、獲得なのか、変容なのか、
獲得されるとすれば、なかった能力が、あるとき「有する」ことになるのだが、
つまりかけていた部分に、あるしゅの充実が起こるということであるが、
このような変容vs無の穴埋め、という図式は、ユダヤ人宗教の<無からの創造>と古典ギリシア存在論の
<流出論>が習合して形而上学になったときから始まる問題であって、
じつは自然が真空を嫌う、という問題も、なかば弁神論的問題がかかわってくるあるしゅカルト的な問題だったのにゃ。
もちろん、自然科学はそれに一定の回答を与えるが、そもそもの問題の起源からはかなりずれているにゃ。
そのようなわけで、また存在と無の問題にからめながら、次回とりとめのない話をするのにゃ。
もしも月がつるっつるの表面を持っていたとしたら、月の見えというのは、漆黒のなかに
太陽のハイライトを持つだけのものになったであろう…。
だがしかし表面がざらついているために乱反射が起こり、いまのような「三日月」とかの様相を呈するようになったのだが、
さて、もし月の回りに、地上と同じように雑多な物体があったのなら、乱反射が乱反射を呼び起こし、
さらにその見えは、ちじょうてきなものになっていただろう…。そしたら、月が実は満ち欠けをするのではなくて、
太陽光を反映しているだけという観察はもっと早くなされただろう、とか思うのであった。
ではまたこんど。つぎはスザンヌ(テレビにでてるほう)のおはなし。
ちょっと誰にもついて来れない暴走気味のスピードですれ描いているので、
もうちょっと常人、というか世の中に一人ぐらい理解者があってもいいレベルの日本語で書くと、
>太陽のハイライトを持つだけのものになったであろう…
というのは、闇に浮かんだパチンコ球が太陽を鏡像的にポツンと反映している状態、のこと。
滑らかなテクスチュアを持つ物体は、滑らかといっても分子単位の滑らかさであるのだが、
それは(光を透過しないならば)、鏡像的に反射して「つや」の効果を持つかするにゃ。
表面がざらついていれば、乱反射して、まわりに物体がないならば単純に照らされているブイが確率的に明るく見える。
地上における球体というのは、周囲の物体による照り返しがないので、単純に照らされた側が明るいわけではなく、
いちばん暗い部位はしばしばいちばん明るい部分の周囲にくる。これは、マッハバンドのことではなくて、
写真の移りで確認してもやはり暗いのである。なぜだかはよくわからない。が、光源がひとつしかない場合、
光源についで明るい部分は光を直接反射する面であり、まあかりにこれを「第二光源」とすれば、
球体の光源とハンタイの部位が比較的明るくなる理由も見当がつく。で、「灯台下暗し」の原理?で、
光源と微妙に距離をおいた部分というのは暗くなることが多く、結局これを「反映」して、
球体表面における明暗がきまるのかもすいれない。ちょっとこれについては、絵画の技術的記述した見たことないので、
よくわからないにゃ…
スザンヌはなんとなく日本語がヘンなので、「じつはわたし日本人なんですよ」というチン発言についても、
いっしゅん「そうなのか…?」と、まにうけるところであった。なんとなく聞いた印象だと、たぶんエの母音は若干せまい。
のと、二重母音「ない」の1もーらしかないのか、みたいな「なぃですか」みたいな発音が多い。
よく考えると、カ行もヘンで、kが公害摩擦になってるか、アスピレーションが多いのか、という気がする。
以上のようなことを総合して、「…じゃなぃですか」、といてみると、スザンヌの「微妙なモノマネ」で、
トンネルズの番組にでれるかもしれない。
いぜん、さいきんの「もしもし」の「し」のおとが、ガムをかみながら「え?」といったような(容量制限でオワリ)
ハナシをはしょることは難しいが、じつをいうとわたしも『存在と無』のような問題を
引き合いに出すことをあまり好ましくないと思うし、出したとすれば、早いところ決着をつけたいと思うにゃ。
そのようなわけで、どんどん結論を早回しに書いておくと、メタフィジクスの「メタ」の部分、
これは現代数学での「メタ」におきかえて、2500年間少なくとも一部の人間が悩んできた超越の問題を、
論理的なメタ性で解読することが可能になってきていると思う。
わたしはこの問題を解消することができると思っているし、そのような意味では、なんとか哲学と呼ばれる
奇妙な知性の混濁をなんとか廃除できれば言いと思っているにゃ。
哲学にまとわりつく人間の知性の中心主義は、あるいみ、理系的な作業で解消できるわけであり、
そのこころは、「情報」というさして新しくない概念の濫觴をもって、哲学系テキストを解読し、
このばあい解読というのは、読みつつ、同時にテキストが提出する問題を無に帰す、みたいな意味であるが、
要するに'70のデコンストラクションに近いものがある。これは「ポストモダン」として、いくぶんさげすまれて見られていることは承知であるが、
んー、このばあい、いま語っていることをナントカ「世間に出回るレベル」に理解してもらえるために致し方ないことであるにゃ。
形而上学の脱-人間化みたいな作業は、デリダによって、おそらく新鮮味も何もないであろうが、
わたしはもっと愚直にやるのにゃ。いっぽで、情報概念もまた、おそろしくくたびれた概念なので、
もういちど、アナログコンピュータと、デジタルコンピュータについて、何が異なるのか、計算的手法とは何か、
「計算する」とは何かについて考えなければならない。そしてこのさいに、「ゼロ」概念またはゼロの入力、
なぜに世界の2値的現象が一般に論理素子と考えうるのか、その条件とは何か、
もしかして2値的現象と宣言すること自体が、いわば還元不可能な(それ以上簡単な理由をもたない)自体であり、
原初的な「デジタル現象」ではないかと思うのだにゃ。
これらの問題はシステム論であり、じゅうぶんに「人間性」「人間の意識に特有の現象」を十分に排除してる、
それは原始的な有機物の負の走光性のみならず、簡単なフィードバックを備えたデバイスにさえ(容量により強制終了)
虚無せんせ>652
>月
おととい、車からとてもきれいな月、金星、木星の配置をみますた。
あんまり綺麗だったので写真に撮ろうとおもいますたが、luneは狂気にも通じるので
もしかして縁起が悪いの?とおもってやめますた。
むずかしすぎて、こんなレスで申し訳ないです・・・
追伸:スザンヌの/e/が狭いのは方言のせい([je]、博多弁とかの「しぇ」とか)、「ない」が短く聞こえるのは
やっぱり方言で、「な」と「い」のピッチが違わないようなアクセントだから、だと思いますにゃん
へーかを見習ってアドリブ路線でやってたら、ただ難しいだけになったのかも知らんにゃ。
社会言語学みたいな文脈になってしまうけど、(わたしはバカサヨクだからいいのにゃ)
かな教育の制度化は日本語の言語的多様性に一定の犠牲を強いたと思うにゃ。
「おみゃー」(お前)というのは、そうカナ表記した時点で、いっしゅの体制側への取り込みであり、本来、表記を持たない複合母音あった
「おみゃー」は存続することは難しくなるし、語り継がれるとしても、表記された「おみゃー」を標準的に読んだものに過ぎなくなるわけである。
そんなことをいってみてもしゃーにゃい。吸着音の表記であった「ちぇっ」は、小説などで使用されるうちに
「ちぇっ」と読まれるようになり、日常生活でもついつい「ちぇっ」といってしまったりするにゃ。
まあ、このように<体制的>表記システムにも生産的な側面があったりする。
あ、そうだ。上のほうで「ガムをかみながらエと発音したような」奇妙な中絶母音の「イェ」が、
若い人間の電話の「もしぇもしぇ…」に現れている、というようなことを依然かこうとして容量いっぱいになってやめたのであった。
で、その「いぇ」が、アンゲラの歌の「拝啓、このでがみゅぇー♪」にも観察されるのであった。
こうしてみると、カナ表記という制度の中でも、けっこう発音というのは(二重母音かも含めて)バリエーションを持ちうるのかとも思うのであった。
(アンゲラがなにじんか知らないけど。)
そうすると、最初のほうの社会言語学的な、体制による言語学的多様性の統一化、要するに「日本語教育」
という大義名分を持った、植民地主義的<同一政策>というのも、ちょっと空論に見えるのだにゃ。
このへんは、もっと量化して考えないと、ただのイデオロギーになってどうにもたちゆかなくなるにゃ。
月の話は、同じような方角で見えたってこと?まあ、ひとつのじゅうにきゅうのなかに惑星が集中すると
なんだか知らないけど、何か起こるみたいだにゃ。
そのようなわけで、次回は「半月」のお話。こ魚先生は今後とも宜しく。
今夜は、ネットアクセスが不調なので、書き込めるかどうかわからにゃい。<蝕>のせいか…
「平和」や「戦争」を象徴する曲というのは書けるけど
平和を象徴する曲から、反-平和を象徴する曲が構成しうるのか、というのがこのすれの、ひとつの意義。
一組の相補的で排他的な状態、要するに2つの状態の集合{0,1}は…簡単に言えば、「計算する」ということの、
非常に原理的な取り決めになるにゃ。
これがただちに存在と無の問題になるのではなくて、むしろこの「相補的で排他的」という論理的な枠組み、
ふへんてきにわれわれの思考や「現象」のなかにあらわれており、少なくともそのように見え、
考えれば考えるほどいっしゅの極限的な境地、to be or not to beに追い込まれていくのである。
だが、ヨーロッパ的な存在動詞の使用が、彼らの思考をそのように強いた、と考える余地はまだあるのであり、
さらにサルトルにいたっては、受動/能動のような言語学的にはローカルだと考えられる見地を、
容易にみずからの「原理的な」思考作業の中に無批判に許容してしまう。
サルトルが無は存在するのではなく「存在される」のだ、というとき、このような思考を許すのは、
あるていどは仏語ローカルの条件によるものである。
サルトルを持ち出して、一瞬しまったと思ったが、世の中的には言語学というのは超のつくドマイナーガクモンであり、
どちらかといえば戯画化されて登場する哲学は、その認知がどのようなものであれ、
「チョムスキー誹謗」よりはましな作業ではないかと思えてくる。
というわけで、サルトルの敗因は、かれは存在者どうしの関係に満足する俗流自然科学・心理学を退け、
また、存在現象の背後に<本質>のようなものの実在を認める伝統的な形而上学も排斥し、
<無>にふさわしい思慮を払わない自称デカルト継承者フッサール(古くはフッセル)も批判し、
みずからは、デカルトが実在の源泉として考える私(コギト)を発見しようとしたように、
無の源泉として、自己意識を<対自>として発見した、と思い込んだところにある。
無の源泉というのは、そんなにムズカシイものなのか?これは…
へーかのお言葉を拝借すれば、エンジニアリングの問題ではなかろうか??
ところで、「自然が真空を嫌う」というのは、もちろん自然科学的な問いかけではなく、
もしも自然に真空があるとすれば、神による創(ここでオワリ)
あぁ何も手につかない…というわけで、「真空問題」というのは、
もし真空が存在するとすれば、この宇宙の完全性に重大な疑義が生じ、
もしその<隙間>に質料が存在したならば、宇宙は何らかの意味で「より多く」なるわけであり、
そのようなあいまいさが残る宇宙を神が創造したとは到底信じられないわけである。
これは神学的な問題であると友に、連続に関する論理的問題でもあったのであるが、このように数学が近代化される以前に
<連続>や<無限>の問題に取り組んでいたことが、後に数学の発展に寄与したのではないかと思えるにゃ。
まえのほうでちょっとふれたけれども、ギリシアの流出説というのは、宇宙の創生が
無からの創造ではなく、第一物質がある相転移を起こし、徐々に劣化しながら流出して世界を形成したというもので、
この教義は錬金術師に<オカルト>として伝承され、第一物質の復元はふつう貴金属の合成という形で象徴されるが、
ここでいう金とは、オリンピックにおける金と同様の象徴的意味しか持たず、重要なことは歴史を遡行することで、
純粋な第一物質にアプローチしようとしたことである。つまりフィルムを巻き戻すように物質の変化を逆にたどっていけば、
イベンチャリーには、原初の状態が復元できるというわけである。
(これはマンガかの諸星大二郎の『孔子暗黒伝』でモチフになっている、5行を反行して過去を再生させる思想と似ているのにゃ。)
それはともかく、中世神学、とくに10世紀以降のプレルネサンス以降、<哲学>はキリスト教とギリシア的世界観の習合となっているわけで、
そのようないみで、なぜ天動説が教会の反感を買ったのか、聖書では、天体というのは植物の後に創造されるほど
興味のない対象であったし、なんでそんなに天体の運行にこだわるの?というしばしばおめにかかるギモンのjこたえである。
このようなバックグラウンドのなかで17世紀にトリチェリの実験が行われるわけであるが、
(実際には真空と思われていたもののなかには水銀ガスが充満していた、それはいいとして)
これは単純に「中世の誤りを正した」というには単純すぎる問題である。それは自然科学者の側から見てそうであるだけ。
そもそも、中世神学が経験的でありであり、中世神学の仮説を覆した、ということになれば、
逆説的な(ココデイッパイ)
> 天動説が教会
こりゃ逆にゃむ。誰も突っ込まない。ほんとうにここは独語スレになってしまた…
ま、それはいいとして、ニラはアブラを多量に吸い込むため、どうもダイエットにはむかないだろう。
アブラといえば、わたしは幼少の頃、サラダ油の成分表示?カナにかで
「アブラが水分を一切含んでいない」ということを知って、ショックをうけたにゃ。
その当時、わたしにとって「水」というのは、物質であると友に、液体の流動性の表現でもあったのだにゃ。
だから、液体には必ず水分が含まれていると思い込んでいた…
このような思考は、おそらく物質の組成と素性の区別がなかった中世においては当然であった。
中世どころか、たいがい「おばか疑似科学」のいっしゅの道化的な存在である燃素も、
けっきょくぶっしつであるというより燃えるという性質の表現であったのである。
ある基礎的な物質量が、じっさいにマテリアルといての実体を持つのか、属性に過ぎないのかは…
そこにほんとうに排他的な論理が働いているのか、「どっちかでしかありえない」という偏狭な二者択一は
20世紀になって消滅してしまった。19世紀末に物理学がエネルギー一元論とでも言うべき境地に達し、
その後物質とエネルギーが置換可能だということになって、狭義の実体論は廃れたように見える。
このはなしはいささかだっせんしているのでこれまで。
なぜに神学的真理を反証すると逆説的になるかというと、それは相手を、自然科学の内部での
「可能な仮説のひとつ」とみなすことになり、ゆえに、神学が真正な自然科学であることを認める結果になるから。
これが通約不可能性と呼ばれるもので、俗にパラダイムのちがいとよばれるもの。
ここでは、単純に自然科学が神学的宇宙観を次々と論破していったみたいな、
単純な、あまりにもコンビニエントな科学史はお勧めしないというにとどめるにゃ。
「生物学が存在しなかったのは、当時生物が存在しなかったから」、にゃ。それではまた。
『every breath you take』パロディできたにょーん。もう音楽に対する愛情がないって漢字。
作詞に時間がかかって、
深夜に歌収録したので、ほぼ一発どり。Cメロはわけわかんなくなった…
http://www.geocities.jp/kyomsky2ch/ 『照合したいEvery move you make』
どういうたぐいのパロディかはおおよそ見当がつくと思う。そいじゃまた。
しまったこっち巡回してなかった。
>>661 ミスマッチなんとか(MME)は、非常に広範囲の知覚に現れるので、
早い話「イナイイナイバー」でもでるかもなので、ものすごく歴史が浅くしかもローカルな
2ビートをもちいるところにセンスのなさを感じるにゃ(´・ω・`)
はってもろうてなんだが。
一般的にいって、研究者本人のもつ一般常識に、研究デザインは限定されるのである。
(「ハトがモーツァルトとバッハを区別した」という結果は、研究者のクラシック理解に全面的に依存するにゃ。
だからこのばあい、研究者個人固有の何らかの弁別に、被験者が順応したとみなすべきで、
文字通り受け取れるものではない。)
だがもし、チョムスキー大先生のように開き直って、自分の直観が及ぶ範囲でまず
研究を始めるということであれば、ひとつのアイディアとして、拍節構造と、音階生成構造は、2と3のばいすうを「好む」
という点で、奇妙な類似点がある、といえる。
つまり、2と3を足すことより、かけるほうをえらぶのである。(そのため、5拍子は、比較的認知しにくい。
Take Five (5分休憩)をトイレで聴いていたら、即興部分になって、小節のアタマがわからなくなった…)
ピタゴラス音階生成の一般式みたいなのは、このスレのどこかに書いたと思うが、
めんどくさいので繰り返さないけど、とにかく基本的には2と3をかけるか割るかである。
へーかの音階認識はいまだに「等差数列」(足し算の世界)である。これは、心的ピッチが、
物理的周波数の対数に比例しており、対数というのはもともと、乗算を加算で代用できるために
天文学者に重宝されたものであるが、それはどうでもいいとして、へーかはいつもこのあたりで挫折するにゃ。
ここをクリアしないと、さらにムズーな音楽認知成立の歴史にせまれないので、
正直もう少し数字に強くなってほしいにゃむ。
暑ーーー。
存在動詞はヨーロッパ的知ではたいへん重要なもので、文法というより思考の分析に近かった
一般文法(PR文法)でも中心的な役割を担った。現在でも論理学的真を定義するものであり、
また神学的にも神の業績を象徴するものである。そのようないみで、
「真空の存在」は、神のみ業の不完全性を意味するものとして忌み嫌われたのであった。
現代哲学者でさえ、「存在は存在し無は存在しない」とか、じつにどうでもいい循環から
抜け出せなかったりする。それはいいとして、このような話を再びしたのは、
最近『ハムレット』の、to be or not to be, that is the question について書いたから。
この前半、引用部分というかCP部分というのは、論理学的にいえば真か偽か、に相当し、
ひょっとしたら、このブンは、<問い>というものの、一般的定義としても解釈できるのではないかと
考えたからである。もちろんこの解釈をフォローする翻訳は全然ない。
もしこれが問いの一般的属性をのべているものだとしたら、もっと簡単に言えば、
「イエスかノーか、それが質問というものである」、という解釈になる。あるいはもっと文学的にすれば
「然りや、否や、それが問ひである」みたいな。
ある問いを究極的に考え抜いていけば、いっしゅの究極的なイエスか、究極的なノーか、
に行き着かざるを得ない、そういう心理的場面を想定したのかも知れない。
そしてそのような「一般的な」含みを持たせつつ、具体的な自分自身の問いについて独白する、
わたしだったら、そのように解釈するにゃーと思ったりする。
それにしても暑ーーー。これからこのすれでは、「絶対に歌になりそうにない」レスに、
あえて作曲してしまうという不毛の試みをしたいと思うにゃ。ま、前からやりたかったんだけど。ほんにゃまた。
わたしは遅筆なので、またしてもサルトルの『存在と無』の話になってしまうのだにゃ。
とにかく、たまたまハムレットのセリフをとりあげただけなのであるが、<ネ>がバカブンケーであるわたしには、
かってに思想のほうが湧き上がってきて、非常に苦痛である。だがしかし、『存在と無』で、
<問いの可能性>が原理的に云々されており、わたしはその部分は、サルトルが<情報>という概念に行き着かなかったことによって、
非常に煩雑になっていると思うのである。それはともかく、あまり話題が拡散しないように…
やっぱり引用しておくのがいいかなと思う(´・ω・`)。
「…あらゆる問いは、本質上、否定的な答えの可能性を立てている、ということをわれわれは見た。…
いいかえれば、それがひとつ『無』として自らを開示する可能性はつねに開かれたままになっている。けれどもひとつの存在者が
<無いもの>として自らを開示する可能性がつねにあることをわれわれが予期しているという事実からして、
あらゆる問いの前提には、われわれが所与に対して一つの無化的後退をおこない、その結果、この所与は存在と『無』とのあいだを動揺する
一つの呈示となる、ということがふくまれている。それゆえ、かんじんなことは、問いを立てる者が、
存在を構成し存在をしか生み出しえない因果系列から、はずれる可能性をいつももっているということである」
サルトル全集『存在と無』106p(尋問書院)
で、じつのところ、ここで「無」といわれていることは、ある<問い>に対して、「そんなものはない」と、
ネガティブな判断に行きつく可能性のことで、そういう可能性が無ければ、そもそも<問い>などは発生しないのである。
ここでいう「問い」というのは、事実上われわれが発する「質問」にとどまらず、
われわれが日常生活の中でとっている態度が、つねにあるしゅの問題解決のタスク処理、というような形式をとっており、
それゆえに、たとえば、もっとも初歩的な問題として、あるタスクが成功したかどうか、というような<問い>には、
われわれはつねにさらされている、ということができる。と、サルトルはいいたいのである。
そしてこれが、つねに<無>に付きまとわれているような人間の意識、というイメージを作り上げる。
To be or not to be, that is the...
> 存在を構成し存在をしか生み出しえない因果系列から、はずれる可能性
ここのところは重要である。わたしは、これは人間固有の問題ではないと思うにゃ。
ここでいわれている問題は、外世界を持つ一つのシステムの問題として解釈できると思うのだのにゃ。つづく。
日曜日から、4拍子の『荒城の月』を3拍子に無理やり
アレンジしなおしたものを作ったが、いやはや…
何かのアクシデントで曲のデータが壊れてしまうことがあるが、ちょうどそれを
再生したようなかんじ。
楽曲構造をいわば破壊したのだから、そうなるのは当然だと思われるかもしれないが、
いやじつは、何か新しいことが起きるのではないかと期待してもいたので、がっかりあるにゃ。
ちなみに3拍子に変えるといっても、あの閉店のお知らせで流れる「ほたるのひかり」のように、
音符の長さを変えて、小節の頭の位置を変えないようなアレンジではなく、
4/4 はるこー|ろーのー|なはのえ|んーーー
を、
4/3 はるこ|−ろー|のーは|なのえ|んーー
というように分割したのである。
まあ、えられた結論は、旋律の記憶は拍節構造を伴って形成されるもので、
その構造をぶち壊すと、旋律の認識事態が極めて困難になる、という、さほど目新しくもないもの。
あるいみ、理論的にはかろうじて容認されるものの、きわめて不安定な曲というものも
「実在するのだ」、というようなことを再認識した。生成のアクブンのようなものかにゃ。
でも、完成したら、またageるのにゃ。
667 :
虚無ソキー:2009/03/10(火) 02:14:37 0
『荒城の月』@3拍子できた
http://www.geocities.jp/kyomsky2ch/kojo.mp3 何を意図したのかというと…
それは、楽曲の心的構造が、いつのまにか楽譜の視覚情報における「群化の構造」にすりかわってしまっている
ような気がしたから。じっさい、まとまった旋律の構造は、まとまった楽譜の音符の視覚上の群化と区別するのは非常にムズカシイ。
まあそういうわけで、『荒城の月』の旋律の、ピッチと音の長さの情報を変えないまま、拍節構造だけ変えて、
旋律が同一であることを知覚できるか、また、階層構造が保存されるのか、といった趣旨で作った。
結果的にはたいへん不安定な曲。わたしの内観では、別の旋律に聞こえる。
(ふつうの曲を聴いて3拍子か4拍子かわからないひとには、ただのかわったアレンジにしかきこえない)
ききますた。主旋律のリズムと演奏のリズムが違って聞こえたのみならず、主旋律と演奏のメロディが独立して
進んでいるようにきこえますた。
よかった…dat落ちしてなかった。
> 主旋律と演奏のメロディが独立して
バックグラウンドの演奏?まあともかく、主旋律が浮いて聞こえたとゆーことだと思う。
で、わたしのアタマのなかでも、この曲の伴奏と旋律を「ドッキング」(死語か)させることができず、
この曲は、打ち込みながら、その場でアレンジしていくというかたちになったのであった。
通常、打ち込みの前に、あるていどアレンジのアイディアができあがるのだが、この曲の場合、
旋律と伴奏を、<同時に>脳内イメージすることが出来ないため、
打ち込み内容からフィードバックさせつつ、場当たり的になった、ということである。
これは、けっこうめずらしい。
だから何かというと、旋律の記憶は、アナログレコーディングのように無構造で暗記されるわけではなく、
小節のアタマのようなものがマーキングされながら、構造的に解釈され記録されるのであろう、といういちおうの
推定が出来るのである。で、この推定は、<視覚イメージ>を経由せずに、聴覚イメージのみから
推定されたのである、このばあい。
どうでもいいけど、保全のためageておくのにゃ。
あれ…ageてなかった○┼< (ドテッ まあいいにゃ。
いくつかブログやtwitterなどを試してみたが、どうせ独り言を書くのなら、
この、もはや10年経とうとしている「2ちゃんねる」で十分なのではないか、と思うのであった。
(わたしが始めたのは2001年なので、10周年にはまだしばらく間がある)
greeという携帯コミュニティサイトにも誘われたけど、これはもはや全然世代的に違うのにゃ。
しかしこう、この「音楽はどこまでなんとやら」というスレほど見事に役割が終わってしまったスレというのは
なかなかにゃい。
もし何事かが不可能であるならば、その不可能であることを証明すれば、
あながちムダなことをしたともいえないだろう…。
ひとつのクルーは、<データ>とその<解釈関数>を中立的に分離して記述し、
音楽であるという基準がどこで発生するのか、を予断なく分析することである。つまり、
早い話、あるデータを「音楽のデータ」としてみなした瞬間に音楽が発生してしまうので、
もっと視点を根源的なところに置かないといけない、という話である。
そして、さらに重要なことには、言語の発生論においても似たような事情がみられるということである。
このようなナイーブな起源論が、無限後退をうむのみ、というのはすでに指摘されている。
(解釈されたという事実から遡行して、解釈されたものを逆生成してしまうから。ほんらいこれが「後付け」と呼ばれるものの正体である。)