仇兄の文法化の話に絡めて言うと、最近、東日本方言にみられる「さ」「こと/とこ」はそれぞれ
「さま(方向:ふりむきざまに、とかにでるやつ)」、「のこと(ぼくのこと、ぶったね、とかのやつ。
前にここでも話題になりました)」に由来するとされ、特に後者は文法化との関連で研究されている
ようです。しかし共通語の「を」はもともと感嘆に発する音(おなぬーしたときに果てるときの声など?)
らしく、上代においては様々な環境にあらわれていたものが、平安時代に対格のマーカーとして
おちついたもののよう。「だけ」「こと」をみると、一体全体、抽象度というか、機能化の度合いというか、
semantic bleachingはすすんでるのかよ、と言いたくなるのですが、「だけしか」ってこういうことを
考えるよいケースかもしれない、といって私は逃げます。
兄貴たち、ちょいとおじゃましますよ。
あちきは日本語史ちうもんのプロパーで、ちょいと横文字に
弱おうございます。ただ古典籍を縦断して読んでると、
出てくる構文や単語の意味・機能の解釈するとき、
兄貴たちのおっしゃていることがヒントになるんでつ。
日本語の量を表す副詞や副助詞には、どうも量用法と
非量用法の両方があることが多いみたいでつ。
どちらの用法がメインか、とか、機能化が進んでいるか、とかは
語の出自や成立背景によって偏りがあるようなので、
そこに用法の違いや構文内における位置の違いが
階層的に生じるようでやんすな。
>>937 平安時代の「を」は、あちきにはまだ体格のマーカーとして
確固たる地位を築いてないような印象がありやす。
名詞句を作る「もの」にひっついて出てくる「を」(「ものを」)
や、「連体形+を」などは、まだまだ詠嘆の意味に重きが置かれてる。
抽象度の低さという意味では、平安時代の「を」も、「だけ」のような
新しい副助詞(「のみ」に比べると成立年代が若い)の振る舞いにも
似てるかも知れませぬね。
>938氏
うほっ!日本語史プロパーの方、いらっしゃいませでがんす。
拙者、何分、中途半端な知識でさべってるもんでがんすさけ、
いろいろご教示いただけるともっけでがんす。
>抽象度の低さという意味では、平安時代の「を」も、「だけ」のような
新しい副助詞(「のみ」に比べると成立年代が若い)の振る舞いにも
似てるかも知れませぬね
このあたり、専門家ならずては、という感じで有り難いです。
以前Ron Langackerせんせのトークに参加するチャンスに浴したとき、
メキシコのZapotec?、とかって言語の文法化の話をきき、質問したら逆に
「日本語の「から」もそうでしょ?」と言われました。
今では同胞(はらから)や族(やから)などダケにシカ残らない「から」は
平安時代には現在と同じような地位を確立していたのでは・・・とまた
中途半端な知識で言っちゃいますが、他に比べた場合の抽象度の低さ(あるいは文法化の進まなさ)が、
対格という文法の中枢に見られるというのは興味深いです。
「から」のような例って
より=寄り、へ=辺(ゆくえの「へ」)、のみ=〜の身、
べし=うべし(cf.うべなう)、き=来、けり=来+あり、ぬ=いぬ、つ=うつ、はつ、
めり=見+あり、なり=音(ね)+あり、ばかり=計り、など=何と
た=てあり(=状態)、
ずら=ずらむ(東海の方言、cf.あらむずらむ)、けに=け(理由)+に(近畿以西)、ばってん=ばとて(九州)
などあるがどこまで本当なのか微妙だろう。
>941氏
僕は「すら」は「空」から来ていると大学のときに習った・・・
・・・と、だらだら書いて今年でこのすれを埋める計画
938でつ。
>>940 >このあたり、専門家ならずては、という感じで有り難いです。
いや、むしろ専門の人たちの間でこういうことを言うと
目ン玉ひん剥かれるので、通常は酔った勢いか、こういう所
でなければとても言えやせん;
こざかなの兄貴のおっしゃるとおり、「から」は平安時代に
用法を確立していやす。(ただ、平安時代の出発点を表す助詞は
「より」がメインで、「から」がメインになるのは鎌倉時代くらい
からでやんす。)
平安時代の助詞の中では、対格の中でも方向を表す助詞「に」「へ」や
「より」「ゆ」、「から」などは、最も文法化が進んでいたグループ
だと思われ。しかもこいつらのなかで「に」「より」「から」などは
中世では接続助詞に機能を拡張していきやがったわけで、文法化の進度
にもレベルがあることを教えてくれまつ。
>>941にはあやしいのもあるし、それらしいものもありやす。
ちなみに、
「なり」は「にあり」、「た」は「てあり」→「たり」→「た」
説が有力でないかの?
訓点資料の一部や万葉集・土佐日記・蜻蛉日記など、には「にあり」や
「てあり」があるし、上代語色の強い資料を読んでいると、構文内の
位置から、語彙的意味を強く感じる用法のものがあるのでつ。
だからあながち胡散臭いばかりではないと思われ。
くさやの若旦那が滅法界鯔背なことばづかいをなさるんで、こっちはキムタク@田舎侍で
応じらへでもらうでがんす。
>最も文法化が進んでいたグループ
>中世では接続助詞に機能を拡張していきやがったわけで
このあたり、不勉強にも知らねぁがったでがんすが、「文法化」という一方向だけでなく、
一部「脱文法化」の方向といえる流れを辿らはたおのも居だでゅうごどでがんすのー
ところでうろおぼえなんですが、山羊書房の日本語の概説書で鈴木せんせが「副詞的な接頭辞は
上代でほとんど消えた」というようなことを書かれてたと記憶してるんですけど、そういうのが
消えてできたスロットに、位置も後ろになって、名詞がもぐりこんで、それが量の副詞になった、
みたいなことってありませんか?むりやり「だけ」の話とつなげようと思ったんですけど・・・
945 :
くさや:2006/12/27(水) 21:21:23
こざかなの兄貴は、ご無体なほど鋭い(^^;)
>>944の話は、あちきの研究対象に限りなく近いんで、ちょいと
話題から外そうとしてたのですが、ダメか・・・
(まだ駆け出しなんで、論文内容から面が割れるってことは
ないと思いまつが・・・)
その鱸先生は鯛先生のことでつか?鯛先生なら、お若いときに、
古代語の副詞を研究なさってましたね。
さて
>「文法化」という一方向だけでなく、一部「脱文法化」の方向といえる流れを辿らはた
でつが、
格助詞から接続助詞への変化については、たぶん別の機能に転成した
(意味A→意味B→機能C→機能Dのように)と考えてまつ。
ただ、日本語副詞ではしょっちゅう名詞から副詞への転成や、文法化と
脱文法化とも言える現象が起きていると思いまつ。
とらうごっと姐さんは、英語メインで文法化を考えてるからか
脱文法化については証拠となるいい用例がなくて、あまり
積極的には述べてないような気がするのでつが、それはあちきの
読み間違いでつかね?
>そういうのが消えてできたスロットに、位置も後ろになって、名詞がもぐりこんで、それが量の副詞になった、
みたいなことってありませんか?
鱸先生のおっしゃる「副詞的な接頭辞は上代でほとんど消えた」
という上代からの変化のつながりについてはちょいとわからない
ところがあるのでつが、↑の引用部分の考え方は、あちきの仮説に
限りなく近いでつ;
あと、どうも古代語の数量の認識と、現代語の数量の認識は
違うようなので、現代語の量副詞の特徴と認識では説明しきれない
ところがあるのでつ。でも、そこらへんの研究でピンと来るものは
善行先生が紀要でちょっと書かれてるくらいで、あまり研究が
進んでいません。
をっと、くさやの若旦那、ちょっと失礼してしまったかな・・・
面が割れるようなことは避けて、役に立つことは拾って、楽しみませう。
(くさやの旦那と話すのに、ちょっと『丸谷くん』が欲しくなったにゃ・・・)
鱸先生は、おっしゃるように鯛先生でつ。そういえばまた最近副詞の研究されてませんか?
機会をつくって勉強しまつ。
あと、遡りますが
>ちなみに、 「なり」は「にあり」(中略)説が有力でないかの?
は、341氏の意図は終止形接続の方かとおもはれ、でつ。
個人的に
>あと、どうも古代語の数量の認識と、現代語の数量の認識は
>違うようなので、現代語の量副詞の特徴と認識では説明しきれない
>ところがあるのでつ。
に惹かれてまつ。善行先生はカオシャン先生でつね?論文、電子化されてないかにゃー
くさやの若旦那に刺激されて、買って10年繙いたことのない石垣氏の『助詞の歴史的研究』を
ひっぱりだしてみました。でも、序を読んだだけで涙が(TT) 大野せんせの自伝にあった
助手人事にまつわる話を思い出し、また涙・・・
それでは、また・・・電源ぷっちゅーん(仇兄の真似)