なぜ「的を得る」と書いてしまうのか

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156名無し象は鼻がウナギだ!
>>145 をより正確に言うと、
「得る」は意味が漠然としていて、何を「得る」のかによって、「得る」とは具体的にどうすることなのかが決まる。
「的を得る」と言えば、的を手に入れる、的を持って行くこととするのが当然の解釈。
「正鵠」は「的」の一部分だから、「正鵠を得る」ためには「的」全体を得ればよいと主張するなら、一休さんの頓知話みたいになってしまう。
「的」ではなく、わざわざ的の中心の黒点、「正鵠」を得ると言うのだから、そこに矢を射当てることとする解釈が、自ずと出て来るだろう。
あるいは黒い所だけをくり抜いて持って行くかだな。何のためにそんなことをするのかはわからないが。

「的を得る」が通用していることは否定できない事実だ。しかし、よく考えると意味不明で比喩になっていない。
よそいきの場では使えない表現 (要するに誤用) だよと、こっちは言ってるだけなのに、妄想だ、言い掛かりだ、「的を得る」は正統だと言い張るから、おかしなことになる。