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名無し象は鼻がウナギだ!:
>学問なんて楽なもんだと思われるじゃないか。
学問はヂ道な努力も必要だが、不必要なことを見抜く力も必要。
「日本人が見られた」ことを確認するのは可能だが、
「日本人が見られなかった」ことを確認するのは不可能。
例えばある漢籍に一つ「負咎」の用例があったとして、その背後には
現代に残らない数多くの用例が想像されるわけだ。しかも正史のように
元々権威有る書物は全て、日本人の「誰か」が接し得たと言っていい。
しかも多数の遣唐留学生は現地であらゆる書物を目にし得ただけでなく
口頭語や手紙でも現地の中国語にどんどん触れ得たわけだ。
しかも秦漢の難民も多数日本に流入して、日本人の血統にまで
影響を及ぼしている。それは訓読形成期の人々だろう。
明代の新語についてなら「見る事が出来た」云々と議論できても
「負咎」のように語法的に四書五経以前から有り得る一般的
な言葉の流入径路を論じるのは根本的に無意味。
要するに一般的漢語はすべて流入可能であった。
こういう大状況がある以上、日中両国に同時に存在する一般語は
基本的に中国から来たと考えるのは常識である。何の確認も不要。
それを何か一つの言葉について否定しようとするならば
まず反証が必要。反証が無い限り、議論の必要無し。