1 :
名無し象は鼻がウナギだ! :
01/09/09 18:29
>>てゆうか、なんで認知の連中、梶田先生を無視するんだよ〜(泣) >結局はチョム理論内部での修正案だから、チョム色を一掃したい連中 >から見れば目糞鼻糞とか思われてんじゃないの? 本人が関連の論文を書いてない以上、大多数の人(特に若手)には 知る術がないですな。25年前なんて認知言語学の構想もない頃じゃない。 梶田先生の(いい)噂は聞いていたけどDTに関しては初めて知った。 衝動派さんが言うみたいに、ラネカーとかやってる人は注目しても いいと思った。
若手じゃなくて、今現在、認知の中心になってる中堅(以上)の連中の話し。 彼らが学生を指導する際に、どうして言及しないのかってことだよ。
4 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/10 01:18
梶田先生って本とか出してる? どんな文献を読めばDTのこと詳しくわかるんだろう。 googleで検索すると(動的文法理論)いろいろ出てくるけど、 あれは梶田先生の理論を指してるのかな???
5 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/10 02:50
生成文法って「構文」というものを認めないってホント? もしそうなら、梶田理論とは相容れないんじゃないの?
>>4 昔むかしの本だが「変形文法理論の軌跡」大修館(持ってるアナタは俺と同世代?)
DTについては1977年のSEL論文の他、数年前の太田センセの何歳だかの記念論集。
「思考法」が一冊の本になっていないのは、とにかくもったいない。
研究社もいくら売れるのか知らんが軽佻浮薄なのばっか出しとらんと、たまには重みのある本
出してみれ。
>>5 プリミティブな概念としては採択していない。各構文はある一連の派生操作の結果として表出するので
あって、その操作自体は個々の構文に特定的なものではない。例えば wh疑問文にも関係節にもtough
構文にも比較構文にも、同一の演算子移動が関わり、その演算子移動操作はさらに一般的な移動操作の
一具体例に過ぎない、とされた。抽象化と一般化を追求する理論研究の中で、構文は自動的に帰結する
ものであってわざわざそれ自体を分析対象としたり、それによって他の何かを説明したりすることはな
い、という意味で構文は理論的意義を持たない。実際にはナントカ構文という表現も多用されるが、
それはもちろん上のような了解があった上での便宜的なもの。「主語」「目的語」といった文法関係の
概念も同様。
とまあ、ここまでいっといて、構文の拡張とかいう場合に、その構文の派生に関与する規則なり操作なり
の拡張適用のようなことを意味せず、文字通り個々の表現形式としての構文の類推的拡大利用のような
ことを言うのであれば、確かに生成の見方とは衝突する。
ただ、今の派生理論では別の意味で構文の概念が重要になってくるかも知れん、というのは以前に
「素性・辞書」スレで俺も書いたと思う。
7 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/10 21:27
______
ヾ/::::::::::::::::::::::::::ヾヽ
i:::::::::(((((((((⌒);) 真夏の炎天下の空の下
|:::::::/ .iノ
>>1 の部屋は異様な臭気に包まれております
|::::/ ヘ / | 混迷の現代に残された、ただ一つの安らぎなのか
,⊥|:|----(=・)-(=・) オナーニという名の近代オペラの序章が
l !:; ⌒´⊃` | 今まさに始まらんとしているわけであります。
ゝ_┃ ´___/
|┗━⊃<二二y' 今夜用意されたオカズは
| \_二/ ネット社会の落とし穴、真性ロリサイト
/ト、 /7:`ヽ、_ 彼にとってオカズというよりは
/::::::::| ~''x‐''''~~ /::::::::::::::`ー 主食といっても過言ではないでしょう
/::::::::::::::::| ,,イ;;;;>、 /:::::::::::::::::::::::::: さあ準備は万端っ!!
::::::::::::::::::::::| /:::::| /::::::::::::::::::::::::::::::: まさに遠足の前夜を迎えた小学生状態……
はたして股間のバナナは、先生おやつに入るんでありましょうかっ!?
おっと、マウスを左手に持ち替えたか……そして、残った右手でまずはゆっくりと
んっ!?
ああーーーーー!!ああーーーーーーーっ!!もうイってしまった!!!
溜まっていたのか!? それとも単に早漏なのか!!??
キャンタマの中で熟成された、遺伝子のブランデーが今!
大きな放物線を描いて、大量に放出されております!!!
しかしなんという量でありましょうか!
お前は、お前はザーメンの間欠泉なのかーーーー!!!
>>4 古いけど月刊「言語」の1984年1月号からいくつか連載があった。具体的
分析もいくつか。前スレでかかり助詞さんが言っていたpretty to look at
なども取り上げられてた。前スレでB.O.B.さんが言ってたけど、梶田先生
本人が書いてくれるとありがたいのだが。標準的生成系におけるチョムスキーのように
先導的まとめ役になって、論文なり本なりを書いてくれるとよかったんだけどね。
>>5 標準的生成では、いわゆる構文の性質は、統語的原理・規則、語彙性質、音韻規則、
意味規則、語用的原理などの相互作用として捉え、ナントカ構文特有の
規則は設定しない。DTでも「構文」をプリミティブと考えない点では標準的生成と
同じ。あくまで規則・原則などが対象で、「構文」は擬似概念。ただし、GiからGi+1に
文法拡張するときに意味・音韻・語用などの性質を取り込んだ規則拡張が行われると
考えるので、最終成人文法 Gnには「これこれの構造では、あれこれの意味を表わすとき
に限り、どれそれの操作が適用してもよい」といった、標準的生成理論では
グロテスクと思われるような構造特有の規則は出てきても構わないとしている。
それを簡略的に「この構文Xは構文Yと構文Zから派生された」と言うことはある。
前スレの最後のところで顔文字さんが言っていたことと共通するかもしれないけど
G1,...,Gi, Gi+1,...,Gnという文法拡張に関して、標準生成理論vs.DTは、表示的文法観
vs.派生的文法観と類比できるかもしれない。チョムスキーは派生的文法観を支持する際に
「派生のステップごとに見れば局所性とかが見えるが、最終表示だけをを見るとその
局所性がぼやけてしまって見えなくなっている」という言い方をする。DT的に考えると
G1(=UG)とGn(=個別文法)だけを見るとぼやけて見えないが、文法の派生のステップを見れば
その文法拡張の背後にある規則性が見えてくる(のかも知れない:笑)
最終結果のGnだけ見るとグロテスクだが、それが生じたプロセスをみると各ステップが
実に簡潔・単純・エレガントな原理に従った拡張を行っているのだと。
pretty to look at って、日本語だとどんな感じだろ。 「見た目がかわいい」でいいっすか?
10 :
名無し象は鼻がウナギだ! :01/09/11 14:25
やっぱ、7、8の構文の話とか聞くと、プロセッシングとかとはそら うまくいかんわな、生成。コンピタンスはパフォーマンスを前提としない ってか。でも言語の起源として一語文のステージとか考えると パフォーマンスが大事なんじゃないのかな。で、コンピタンスと 呼ばれているものはどう始まるのやら。
>いや、本質的には同じ暴論だと思う。「○×を望むから○×を習得する」の前提として、○×の潜在的能力やそれを習得する >能力がそもそもその種や個体に備わっていなければならず(そうでないものはいくら望んでも習得できない)、その前提部分 >にこそ生得性が大きく関わっていると思う。>前スレ472 以上は、かりにわたしが「ヒトもがんばれば、ミツバチのダンスが習得できるはずだ。」 と主張したことに対するレスと考えても、辻褄があう。 辻褄が合うどころではなくて、生成文法の理念を表明する的確な論弁だ。 もうすでに、議論が平行線をたどることは目に見えているな… あ、でもとりあえず、ご返答ありがとうございます。 パフォーマンスエラーの引用もありがとうございます。 (テオロジカル→テレオロジカル) そもそも習得とか知識とかの厳密な定義をしないと、なかなか実のある議論にはならない。 免疫系は学習するのか? 個体のあらゆる器官の発生は、能力なのか? これらの問題群がこのスレにふさわしいとは思われないし、 なにぶんわたしは素人の毛を剃ったようなアホなので、本格的な批判は望むべくもない。 でも、チョムスキーが新しい問題領域を切り拓いたことは、評価したい。 つづく。
デカルトについて。 空間を数値化して、座標に写像したひと。 それまで、味や匂いのような性質はもちろん、善や悪のような価値観までもが、 「質料」として混在していた生活空間を、数理的に抽象化した人物。 とにかく生成文法は、デカルト的操作と類比的に考えないと、 なぜにシンタクスを方法論のコアに据えたのかはわからない。 生成文法は、じじつ本質的に数理モデルに近いと思う。 ある系について、 交換法則が成り立たないばあい(p*q≠q*p) 結合法則が成り立たないばあい([p*q]*r≠p*[q*r]) あるいは成り立つばあい([p*q]*r=r*[p*q])なんかの その諸条件を追究している作業に近い。あくまで、知的作業としては。 問題は、実在主義なんだよなあ。 数理論理学は、いちおう人知からは独立していて、どんなにそれが現実問題をうまく記述しようと、 それじたいがどう人間の知識にもたらされたかは、固有の問題領域として考えない。 いっぽう生成文法は、存在問題において明確な主張がある。 考えてみると、「無限」の概念は、いかに巨大な数を見たからといっても帰納的には生じない。 無限は、とほうもなくでっかい数ではない。無限を経験することはできない。 この意味では、negative evidence の論理が通用する。 デカルトはその起源を神に求めたわけだけど、類比的に考えれば、 生成文法における生得性が有意な説明原理になるかどうか。 どこにひっかかるかと言われれば、ここかなあ… あれれ?やっぱり言語学じゃないな。またくる。sage。スマソ…
>どこにひっかかるかと言われれば、ここかなあ… (自分が>12を適切に理解した自信はゼロも、なぜか)同意(した気分)。 >あれれ?やっぱり言語学じゃないな。 生成文法の生得性を議論することは言語哲学であってそれ自体は言語学ではないって理解は 可?不可?
今度は言語学でいこう。 日本語の生成文法的解釈は、marginalな文がでがちなので、 もう少し普通の文で試してみようかな。(勉強歴2週間) てなわけで、「の」の話ふたたび。 かかり先生は二つの「の」と言ってたけど、より根本的には 属格を付与する「の」と、主格を付与する「の」の二つがあると思う。 日本語の形容詞(形容動詞含む)は、モードや時制、意味上の主語を持つことが考えられるので、句あつかい。 (英語の形容詞は、日本語の連体詞に相当すると思う。) だめ? ま、そういうことにして、主格付与と属格付与について考えてみる。 「わたしの部屋」「わたしの白い部屋」「わたしの静かな部屋」 では、属格付与。修飾部の語順を入れ替えて 「白いわたしの部屋」「静かなわたしの部屋」「静かなわたしの白い部屋」 にしても、属格付与は保たれる。いっぽう、 「わたしの好きな部屋」「わたしの住む部屋」では主格付与。語順を入れ替えて 「好きなわたしの部屋」「住むわたしの部屋」では主格付与は保たれない。 また、 @)「わたしの好きな白い部屋」 A)「白いわたしの好きな部屋」では、主格付与。 B)「わたしの白い好きな部屋」では、「わたし」と「好きな」の関係は失われてしまう。 主格付与の「の」が「が」と置換可能という、よく知られた規則を適用してみよう。 @')○「わたしが好きな白い部屋」 A')○「白いわたしが好きな部屋」 B')?「わたしが白い好きな部屋」 以上の簡単な考察から、主格付与の「の」が補部構造を形成すると思われ。 [NP [AP わたしの好きな][AP 白い] 部屋 ] だめ? ところで「わたしの静かな白い部屋」ではなぜ「の」は属格付与なのか。 さっき言ったように、形容詞が指定部素性を持ちうることから 素性が一致する限りにおいて、「の」は主格付与なのであろう。 ○[NP [AP わたしの好きな][AP 環境の静かな] 部屋 ] ○[NP [AP わたしの好きな][AP 床の白い] 部屋 ] それにしても、どういう素性? 「わたしが白い」ことがただちに排除できない以上、 「わたしの白い部屋」の「の」が属格付与ということは、 じつは、形容詞の補部素性も考えなければならないことに、はたと気づくのであった。 ということは、NP[[NP][の][AP][NP]。において、三者の素性が一致するかどうかが 「の」の性格を決定するのかな。 しかもその素性はかなりセマンティックな感じ。 ?「鼻の長い部屋」 だめだ…。降参。付け焼刃ではダメダメだ。さげ。 かかり先生はわたしのことが嫌いだと思うけど、ご教授お願いします。 もちろん他のかたでも… 国語の先生、少々お待ち下さい。
15 べつに好きとか嫌いとかないけど、私は首を寝違えてしまって コンピュータの前に座っているのがつらいので、治ってからでも かきます。その前に誰か他の人が返事してくれていることを期待 しつつ。が-のconversionね。
国語の先生へ。 生成文法の生得論議は、経験的なものでなければならないと思ってます。 というより、チョムスキー本人が自然科学をモデルにしてますんで。 だから、生得性については、生物学、生物行動学などにより検証されるべきでしょう。 言語学についても、ローカルルールにあるようにたんに「記述的」ではないですし、 言語をメタレベルに語るという意味では、 言語学か言語哲学かは、微妙な問題かもしれません。 わたしはアホなので、考えたけどよくわかりませんでした。 「の」の問題も、ものすごくよく考えたのですが、アホなのでダメでした。 また来ます…
かかり先生へ。お大事に…
虚無好きより。
いろいろ考えたけど、いろいろな理由で、
顔文字さんのおすすめのようにHNを持つことにした。
(アホの下げ止めのためもある)
とりあえず駄じゃれで、アホアホを象徴したれす。
これからもいろいろよろぴく。
早速、生物行動学→比較行動学
>>16
>が-のconversionね。 そうですね。 「女の好きなわたし」の「の」が、普通の意味で、主格でも属格でもないので、 主格付与と属格付与の選択の問題と考えたのは誤まり。 ほんとうの問題は「の」が「が」にコンバート可能かということ。 結局、「わたしは女が好き」「わたしは水がほしい」の構造を明示できないとダメ。 これが二重主格? もうちっと考えてみまふ。 デカルトの生得観念(無限)のはなしは、 negative evidence ではなく、lack of evidence の議論でした。 こういう話は書きながら考えているので、激しく突っ込まないでチョーダイ。 またくる…
19 そうね、名詞句の中では「が」が「の」にかえられうる。この「の」は 疑問の「の」とかnominalizerとかとはまた別物よ。主語に関しては「日本語には 主語はない?」とかいうスレがあったからそちらを参考にされたい。