人間は、偶然を嫌うんだよ。意味に囚われた生き物というべきかな?
関連のない事象がたまたま連続して起こっても、そこに有るはずのない意味や関連を人は見てしまうんだな。
もちろん、本当の関連を見つけだしたからこそ、科学が発達したわけだけど、
追試験や、再現性、統計学的有意差で検証できなかった時代は、迷信と体験的真実がごっちゃになってたわけだ。
だから生け贄とか人柱から、夜に爪を切ってはいけないまでの迷信が信じられてきたわけだ。
で、科学的素養とは、科学の論理を体得することで、これは正直、学問が必要。
基礎知識をしっかり持たないと、リテラシーが産まれないんだよね。勉強が必要ってのはこういうことで。
しかし、基礎知識をしっかり持ってないと、ニセ科学や疑似科学、とんでも学説が、学会から追放された真実に見えがち。
学会で主流になれない学説は、必ず再現性や理論、検証で弱い部分がある。
そう言うことを陰謀論にはまる人は、看過する。自分の信じたいものだけを信じたいから。
でも、世界というものは、個人の頭の中には入らないモノ。
わからないモノ、あやふやなモノ、どうにも説明が付かないモノ、奇天烈なモノから、おぞましいモノ、高貴なモノから、美しいモノ、理解を超えた偶然。
個人の思惑を越えるものは無数にあって、その前では人一人の考えなど、蟷螂の斧に過ぎない。
だから、それが意味のない偶然なのか、関連性があるのか、関連があるにしても、相関関係なのか因果関係なのか。
それはよく考えないといけない。
分かっていると、理解していると思ったときが、一番盲目な時。
分からないものは分からない。それを言える人物が恐ろしいのは、想像もつかない例外を考慮しているから。
想像がつかないようなものを、想定している洞察の深さが恐ろしい。
だから、無知の知を唱えたソクラテスは、真に賢者。
ちなみに、40人のクラスで、同じ誕生日の人がいる確率はいくらだと思う?
必然に見える偶然はこんなことでもかいま見えるんだ。