当スレは本人共々順調に降下中です。
954 :
通行人さん@無名タレント:02/01/14 12:33
広末かわいいね
広末はいい。
どうせ批判してるの女ばっかだろ。
956 :
通行人さん@無名タレント:02/01/14 13:42
尻フェチ君は?
広末は裏口入学
広末はあばずれ
広末はぶす
広末は基地外
広末は禿
広末は精神病
広末は馬鹿
こんな所で何を言おうが、広末の活躍は止められない。
アンチは広末なんて活躍してねーよ。と言うんだろうけどね。
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ゲイ!!とも・・・と呟いてみる
さ、去年からヒリ続けてる糞を終らすか。
メンドイ、辞め。
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979 :
通行人さん@無名タレント:02/01/15 11:13
はじめに(序説)
このように私は聞いた。ある時、お釈迦様は、すべての如来が持っている金剛のように不変不壊な
力によって、極めて勝れた境地に到達された。そして、すべての如来の智慧を象徴する宝冠によっ
て、頭を浄められ、三界の主となられたのである。このように、お釈迦様は、すべての如来の一切の
ものを知る最上の智慧を得られ、心と体の完全な自由を得られた。その上、お釈迦様は、すべての如
来の一切の行為が平等な慈愛によることを示す種々様々な事業を遂行された。
かくて、お釈迦様は、あますかたなく、すべての人々の世界における、すべての人々の願いを、み
なことごとく完成させて、過去と現在と未来との三世のすべての時において、御自分の身(からだ)と
口(ことば)と意(おもい)との三つの働きは、いささかも停滞するところがなくなった。こうして、お
釈迦様は「あまねくすべてを照らすもの(大日如来)」と一体になられたのである。
この大日如来は、この世界の果てにある他化自在天(他を救うことが自在な所)の王宮に居られる。
ここはすべての如来が常にゆきかい、その優れた様が褒め賛えられている大宝殿である。くさぐさの
宝が錯綜し、吊りおろされた鈴や鐸そして絹旗が微風に揺れ動き、宝珠のついた髪飾りや装身具、半
月や満月の形をした宝石などが、いとも美しく飾られている。
この美しい宮殿の中に、大日如来は八十億もの多くの菩薩と共に居られた。その菩薩の中でも、金
剛手菩薩大士(金剛のように堅固な菩提心の体現者)、観自在菩薩大士(大いなる慈悲の実現者)、虚空
蔵菩薩大士(一切の事物を包容してあらゆる存在をさまげない福徳者)、金剛拳菩薩大士(大いなる三密
の行者)、文珠師利菩薩大士(最上なる智慧の完成者)、纔発心転法輪菩薩大士(素早くそして巧妙な説
法者)、虚空庫菩薩大士(無尽にして無余なる供養者)、摧一切魔菩薩大士(外に憤怒を内に悲憂を懷い
て悪を摧く奉仕者)の八大菩薩は座の中心であり、これらの大菩薩たちに尊敬されて、取り囲まれて、
大日如来は正しい法(おしえ)を説かれたのである。
その法は、始めに善く、中に善く、終りに善く、表現の内容も巧妙で、いささかの誤りもなく円満
であり、清らかで澄みわたったものである。
第二段 さとりはすべてにあまねし(証悟の法門) 大日如来の章
続いて、大日如来は、すべての如来の現等覚(さとり)を生み出す教えを説かれた。それはすなわ
ち、あらゆるものの本性は、悩みを離れ、寂静であるという教えである。これこそが真実なる智慧の
理趣(みち)である。
一つには、金剛のような現等覚である。これは、すべてに普遍で平等なることを知る悟りであり、
金剛のように堅固で不壊な大菩提である。これは金剛平等(大円鏡智:澄んだ水の表面に喩えられる阿
しゅく如来の智慧)と言われる。
二つには、すべての利益が等しいことを知る現等覚である。この大いなる菩提は、すべての利益に
基づき、慈悲によるがゆえに差別がない。これは義平等(平等性智:澄んだ水の水面が同じ高さである
ことに喩えられる宝生如来の智慧)と言われる。
三つには、法(教え)が平等であるという現等覚である。この大菩提は、ものの自性が清浄であり、
すべてのものにあまねくゆきわたり、その教えはすべての人々を教化するからである。これは法平等
(妙観察智:澄んだ水の水面にすべてを映し出すことに喩えられる阿弥陀如来の智慧)と言われる。
四つには、すべての業が平等であることを知る現等覚である。この大いなる菩提は、私欲にとらわ
れず、すべての分別動作をそのままに、如来の種別を超えた平等の境地に通ずるからである。これは
一切業平等(成所作智:澄んだ水がすべてのものの成長を育むことに喩えられる不空成就如来の智慧)
と言われる。
982 :
通行人さん@無名夕レント:02/01/15 11:14
980〜
この「さとりはすべてにあまねし」という教えを四段に分けて説き終り、大日如来は金剛手菩薩に
呼びかけられた。
金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの四つの悟りを生み出す法を聞いて、これを読み誦え、身に保
ち持っていたならば、たとえ今ここで数えきれない重い罪をなしたとしても、必ず一切の地獄に墮ち
るという報いを超えて、そのままで無上正等覚(さとり)を証することであろう。
かくて、大日如来は、第一段で、すべてが大楽であることを示したのに続いて、第二段では、それ
を実現する方法を説き終り、これらの四つの現等覚を、より一層に明かにしようと考えて、顔を和ら
げ、微笑まれ、手に智拳の印を結び、「一切の法は自性平等(法界体性智:澄んだ水がいたるところに
ゆきわたることに喩えられる大日如来の智慧)」という教えを一字で表わす聖音「アーハ」を唱えたの
であった。
すでに、大日如来は、御自分の智慧を主客の両面から説き終られて、この理想の世界を八大菩薩に
よって象徴される八つの法門として、もっと具体的に説明しようとされた。
第四段 ものすべて浄らかなり(観照の法門) 観自在菩薩の章
さらに、大日如来は、善悪が共にその本性において平等にして清浄であることを示すために、「も
のすべて浄らかなり」という真理を自由に観る智慧を生み出す理趣(みち)を説かれた。この境地は観
自在菩薩の境地である。これは「四種の不染」の教えと呼ばれる。
この世間における一切の貪欲は清浄である。何となれば、すべてのものの本性は清浄であって、善
や悪の貪欲などという区別は現象の上にあらわれたものに過ぎず、決してその本質にまでさかのぼっ
て汚すことができるものではない。このように貪欲が清浄であるとすれば、この貪欲の不足によって
起こる瞋恚も痴愚も、その心に根拠がなく、すべて清浄である。(金剛法菩薩)
このように、貪欲も瞋恚も痴愚も、この世のすべての垢(けがれ)が清浄であるがゆえに、これらの
垢から生じる一切の罪の業(おこない)も、その本性は悪ではなく、極めて清浄である。(金剛利菩薩)
また、この世における一切の構成要素も、その本性は善悪の区別なく清浄であるから、これらの構
成要素が一時の存在を保つために、仮に組み合わさったもので、すべての生き物は清浄である。(金剛
因菩薩)
さらに、この世の中で働いている理性も、宇宙の本性そのものであり、大日如来の最高智のあらわ
れなのだから、とても浄らかで、現象の上の区別や表現で汚されるものではない。(金剛語菩薩)
このように、貪欲の本質が清浄であり、諸々の貪欲から起こる瞋恚も痴愚も清浄であるならば、こ
れらの三毒から生じる悪業も、本質は清浄であると観なければならない。世界を構成する一切は清浄
であり、それを自覚する智も清浄である。この本質の清浄性を証明する四つの見方(四種の不染)を説
き終わり、大日如来は金剛手菩薩に呼びかけられた。
第三段 悪にその性なし(降伏の法門) 釈迦牟尼如来の章
大日如来は、従い難いものどもを、心身を制御することによって、煩悩や悪行に打ち勝つという調
伏の修行に励む釈迦牟尼如来(お釈迦様)の姿になり、すべての法は平等で、善悪を離れているという
最も勝れた境地をもたらす教えを説かれた。これは真実の智慧の理趣(みち)である。
貧り(むさぼり=貪欲:自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと)は、その本質からす
れば、善悪の分別も、それに執らわれた表現も超えたものであり、人によっていかなる善にも活かす
ことができる。貧りがかかるものである以上、瞋り(いかり=瞋恚:自分の心に逆らうものを怒り恨む
こと)も同様で、善悪の分別も表現も超えたものである。したがって、もし自我に執着することなく、
それを善に活かしきれば、邪悪に打ち勝つための大きな瞋りが生み出される。このように、瞋りが善
悪の分別を超えたものであるとすれば、痴しさ(おろかしさ=痴愚:根本の真理を知らないこと)も同
様で、善悪の分別を超えたものである。ゆえに、小さな自我に執らわれず、それを善に活かす時は、
これが愚かとか、あれが賢いなど、物事の理非をあれこれと言いたてるような、小さな痴しさを超越
して、大きな痴しさの境地に至るであろう。
このような三毒と呼ばれる貧りと瞋りと痴しさの悪しき心の働きは、すべて相対的な区別にたった
認識に過ぎず、すべてのものは善悪の区別や表現を超えたものなのである。したがって、すべてのも
のが、その本質において、現象の上に見られる相対的な区別や表現を超えたものである以上、この本
質を知るための真実の智慧の理趣も同様に、かかる区別や表現を超えたものでなくてはならない。
こうして「悪はもともと悪ならず」という善悪を超えた法門を説き終わり、大日如来は金剛手菩薩
に呼びかけられた。
986 :
通行人さん@無名タレント:02/01/15 11:15
広末は鈴木杏ちゃんじゃないので間違ってます。
第五段 すべてに富めり(富の法門) 虚空蔵菩薩の章
ついで、大日如来は、三界のすべてのものの主であり、そのすべての福を集める一切三界主如来の
姿となられ、すべての如来がすべての人々に灌頂(めぐみ)する真実なる智慧の理趣(みち)を説かれ
た。これは灌頂の智慧をみきわめる「四種の施行」である。
まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。最上
の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。(灌
頂施)
また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、
この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。(義利施)
次に、如来の法(おしえ)を人々に施すことにより、一切のものが法性(普遍の真理)を獲得すること
であろう。(法施)
最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。この行ないによって、世のすべての
飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであ
ろう。(資生施)
かくて、一切の如来の灌頂智蔵という真理の体現者であり、虚空(おおぞら)のように無限の福徳を
身に持つところの虚空蔵菩薩は、この「四種の施行」の真理を、より一層に明らかにしようと考え
て、顔を和らげ、微笑まれ、金剛と宝珠とを連ねて作った冠を頭に頂いて、「すべてのものに智慧の
水を灌ぐ」という教えを一字で表わす聖音「トゥラーン」を唱えたのであった。
金剛手菩薩よ。もしこの三つの活動の完全性という真実なる智慧の理趣を聞いて、これを読み誦
え、身に保ち持っていたならば、一切の自由を獲得することであろう。また、一切の智慧の自由を得
て、自分の知能活動が、如来とまったく同等になるであろう。さらに、小さな我を離れる時に、あな
たたちの身口意の活動は、如来の身口意の活動と等しくなり、すべての行動の完成成就を得ることが
できるであろう。すなわち、身と口と意とのすべての活動が、金剛のごとく堅固で不動なる完成の境
地に到達するのである。そうして、あなたたちは、ただこの身のままで、無上正等覚(さとり)を得る
のであろう。(即身成仏) かくて、大日如来は、この真実なる活動の理趣である「四種の智印」を教
えるために、金剛拳菩薩の境地に立たれ、この「四種の智印」の教えを、より一層に明らかにしよう
と考えて、顔を和らげ、微笑まれ、この自由の境地を表わす金剛拳の印を結び、金剛のごとく堅固で
不動なる全活動の完成を一字で表わす聖音「アハ」を唱えたのであった。
第七段 言葉に相なし(字輪の法門) 文珠師利菩薩の章
続いて、大日如来は、すべての分別と戯れの議論を離れた智慧の完成の境地に立たれ、この境地を
象徴する一切無戯論如来になられて、アの音から始まる一切の語音を自由自在に操って、言語活動の
上に現われた「言葉に相(すがた)なし」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種
の解脱」と言われる教えで、文珠師利菩薩の智慧である。
すべての諸法は、その本質において、いかなる実体をも持たないのであるから、空である。宇宙に
存在するあらゆる事物は、もろもろの事物が縁起によって成り立ったもので、固定的実体がないので
ある。これを諸法の空と呼ぶ。
すべての諸法は、その本質において、定まった形相がないのであるから、無相である。だから前述
の諸法の空というのは、表現上の仮の相(すがた)なのだから、もし諸法の空に固執したならば、逆に
空から遠ざかってしまう。これを諸法の無相と呼ぶ。
すべての諸法は、その本質において、特定の方向や目的を持たないのであるから、無願である。だ
から前述の諸法の無相について、その相から離れたいという願いに執着することは、逆に空から遠ざ
かってしまう。これを諸法の無願と呼ぶ。
このように、すべての諸法は本質において空であり、固定した相も、目的も方向も願いもないので
あるから、すべての諸法は自由で光り輝いている。真実なる智慧の理趣に照らしてみれば、ものはみ
な清浄なのである。これを諸法の光明と呼ぶ。
かくて、清浄で邪気のない文珠師利菩薩の姿に変身した大日如来は、この「ものも言葉もすがたな
し」という教えを、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、自らの智慧を象徴
する鋭い剣を振るって、一切の如来を切る姿勢をとられ、この教えを一字で表わす聖音「アム」を唱
えたのであった。
第八段 輪のごとく欠くるところなし(入大輪の法門) 纔発心転法輪菩薩の章
ついで、大日如来は、世の一切の如来の悟りを示す輪のごとく円満なる境地に立たれ、この境地を
そのまま名とする一切如来入大輪如来(人々のために慈悲の心を起こして真実なる法輪を回転させる纔
発心転法輪菩薩の如来)になられ、完全にして円満なること大いなる輪のごとき境地に入るための真実
の智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の輪円」と呼ばれる教えで、宇宙の秩序を表現する曼
荼羅(シェーマ)の一つである。
まず、あなたたちが、自分自身の心も、世のすべてのものも、堅固不動にして、連なる輪のごとく
完全無欠であることを悟れば、たちどころに一切の如来の環のごとく完全なる智慧の境地に到達する
ことができる。(如来の法輪)
次に、世の義利(利益)の偏在はありえず、それはすべてに平等円満であり、あたかも虚空(空間)の
ごとく尽きることなく、宝を取り出すことができるという虚空蔵菩薩のような円満なる境地に入るこ
ととなろう。(大菩薩輪)
さらに、すべてのものの円満で平等なることを悟れば、たちどころに大乗の妙なる完全なる真理の
境地に入ることであろう。(妙法輪)
最後に、すべての事業の円満で平等なることを悟れば、たちどころに一切のものの働きが円満で安
全なる境地に到達するであろう。(事業輪)
かくて、この「輪のごとく欠くるところなし」という真実の智慧の理趣を説かれた大日如来は、纔
発心転法輪菩薩の姿に変身されて、より一層にこの教えを明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微
笑まれ、この教えを象徴する金剛輪を右手の中指に乗せて、左手で一つ股の金剛杵(独股杵)を持っ
て、この杵で右の輪をクルクルと回転させて、この輪に喩えられる真理の働く様子(曼荼羅)を示され
た。そして、この完全無欠な輪のごとき境地を一字で表わす聖音「フーム」を唱えたのであった。
第九段 供養とは何ぞ(供養の法門) 虚空庫菩薩の章
それから、大日如来は、世の一切の如来を種々に供養するための広大無辺なる儀式の蔵という名前
を持つ一切如来種種供養蔵広大儀式如来(虚空を庫にしてすべてのものに惜しみなく円満にものを与え
て欠けることがない虚空庫菩薩の如来)となられ、一切の如来を供養する非常に勝れた境地を生み出す
真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の供養」と呼ばれ、すべてのものを利して養う
四つのすぐれた行ないの実践である。
まず、菩提(さとり)を願う心を発すれば、それがそのまま諸々の如来の最も喜ばれるところとな
り、広大な供養になる。なぜならば、真理の具現者である一切の如来と菩薩は、真理を知り、悟るも
のが一人でも多いことを願っているからである。(発菩提心供養)
次に、この世のすべてのものを救済することは、それがそのまま諸々の如来を供養することにな
る。なぜならば、すべてのものを苦海から救い出して涅槃に度(わた)らせることが、如来の本願だか
らである。(救度供養)
さらに、妙なる真理を記した経典を身に受持することが、そのまま諸々の如来への供養になる。な
ぜならば、経典に書かれた内容は、如来の悟りであり、それを人に知られることを欲するからであ
る。(妙経供養)
このように、般若波羅蜜多(最高の真理)を記した経典を、身に受持し、読誦して、自分で書き写
し、他人にも書き写させ、よく心に考え、十種の修行を実践したならば、それがそのまま諸々の如来
の供養になるであろう。(般若供養)
かくて、この「真実の供養」の教えを説き終わった虚空庫菩薩は、より一層にこの教えを明かにし
ようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、一切の事業が空しからずという境地を一字で表わす聖音「オ
ーム」を唱えたのであった。
第十段 大いなる忿り(忿怒の法門) 摧一切魔菩薩の章
続いて、大日如来は、すべての障害を克服するための悪に対する強い忿怒を内に潜めた智慧の境地
に立たれ、その境地を象徴するために、拳を強く握り、その境地をそのまま名とする能調持智拳如来
(外に憤怒を内に悲憂を懷いて一切の悪を摧く摧一切魔菩薩の如来)となられて、「世の一切の悪を調
伏する智慧の蔵」という真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。これは「四種の忿怒」と言われる教
えである。
まず、一切の有情(生きとし生けるもの)は、その本質において平等であり、自他の差別は現象の上
だけのものだから、すべて自他の差別によって起こる忿怒も、その平等性の発露そのものであり、対
立的な忿怒ではない。これは忿怒の平等と呼ばれる。
また、一切の有情は、現象の上からみれば、惑と業と苦の三つのあり方の中にあって、苦しむ存在
であり、これは調伏しなければならない存在である。一切の有情は平等なのであるから、忿怒は調伏
の働きがある。これは忿怒の調伏と呼ばれる。
また、一切の有情は、現象の上からみれば、惑と業と苦の三つのあり方の中にあって、苦しむ存在であり、これは調伏しな
ければならない存在である。一切の有情は平等なのであるから、忿怒は調伏の働きがある。これは忿怒の調伏と呼ばれる。
世の一切の有情は、その背後に潜む法性(不変の本質)の現象界における差別と展開に他ならないのであるから、この法性を
強く自覚することが、そのまま大いなる忿怒である。これは忿怒の法性と呼ばれる。
世の一切の有情は、その本質においては、いかなる行為も行動も完全で不変な金剛のごときものなのだから、現象の差別を
離れ、この本来の金剛性を強く自覚すれば、我執にとらわれ束縛された行動を調伏できる。なぜならば、すべての生きとし生
けるものを調伏することは、さとりのためだからである。これは忿怒の金剛と呼ばれる。
ではいかなる理由によって、世の一切の有情を調伏することができ、菩提を開くことができるのであろうか。それは、現象
の差別を撤廃させることによって、その背後の清浄な菩提を見成する時に、大いなる忿りを離れるのである。
かくて、摧一切魔菩薩は、この「大いなる忿り法門」を、より一層に明らかにしようと考えて、顔を和らげ、微笑まれ、手
に金剛牙の印を結び、身体全体を金剛夜叉の姿に変身させて、すべてのものを恐怖させ、仏道に引き寄せようとされた。大い
なる忿怒は、そのままで大いなる歓喜となり、この教えを一字で表わす聖音「ハハ」を唱えたのであった。
以上、大日如来は、第三段から第十段までの八章において、第一段で示された大日如来の心の理念と、第二段で示された大
日如来の心の発現とが、八大菩薩によって表現される様々な徳目を通して、いかに我々の現象世界に実際に現われるのかを説
き終られた。かくて、大日如来は、再び八つの徳目を一つに普集(まとめ)て説かれる。
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∂/ハ) || ヽ
∝ハ´Д`ノ
( つ )
(⌒_)__)
アンチ広末は元ヲタの哀れな末路です。
アンチ広末は元ヲタの哀れな末路です。
アンチ広末死す
アンチ広末は元ヲタの哀れな末路です。
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。