カンニング竹山タンエロカワイイで2000レス目指すスレ
>>304-306 カンニング竹山の記者会見
(2006年12月21日午前11時30分 東京四谷 サンミュージック本社会議室にて)
【相澤正久サンミュージック社長】
カンニングの、中島忠幸、えー、11時、午前11時46分、
病院のほうでですね、永眠いたしました。
病名はですね、ええ白血病に、ですね、ウイルス性の肺炎をですね、併発しまして、
ええ、残念ながら、…永眠してしまいました。
本日はですね、あの、相棒の、竹山のほうから、色々お話させていただきたいと
思いますので、宜しくお願い致します…
【カンニング竹山隆範】
ええ、……
正直言うと非常に、ええ、残念な気持ちでいっぱいです
ええ、ちょっとこの2年間、ええ、中島も僕も一緒にちょっと頑張ってきたんですけども、
ええ正直状況はええ、ずっと辛い状況が続いてまして、
ええ、まあそれでも、まあお互いに励ましあいながらええ頑張っては来てたんですけども、
ええ最終的に一番残念な結果になって、ええ、なんともいえない状況、です…
まあ、ええ、まあよく中島とも話していたんですけども、ええ、まあ後はもうその、
今からその、葬儀だとかそういうことがカンニングとしての最後の仕事になるかなと、
いうことでそれを精一杯やろうというのが一点と、
あとあの、まあ中島の供養といってはあれですけども、まあ僕には、その、
あいつのおかげでってのもありますけど、こうして世の中に出れまして、ええ芸能界で
仕事をできるようになりましたんで、ええ、まだ年末で残された仕事たくさんあります
んで、ええご迷惑をかけないように、またこう気持ちをきり、切り替えるのも難しいとは
思いますが、一生懸命仕事をしていきたいと思います…とにかく非常に残念です…
―――あの、はじめてお聞きになったのはどんな状況の中でお聞きになったんですか?
ええと、あの亡くなったのですか
―――はい
ええ、とですね、ええ、白血病が再発したって言うのが、ちょうど秋ぐらいに一回
こう移植とか何だかんだでいい状態に直りまして、そのときにまあ一緒にええご飯を
食べたりとか、外で、そういうのをしまして、そんで正直そのときに色々春ぐらいから、
やりたい、話だと、そういうんを色々具体的に決めようかということをしていました。
ええと11月の、11月の半ばですかね、半ば中旬ちょっと過ぎぐらいに、
ええ白血病が再発したっていうのを、まあマネージャーのほうから聞きまして
まあでもそういうことはまあここ一年、色々ありましたんで、まあまたかって感じでした
けども、まあその、今回、いろいろ僕も、個人的に調べたものとか色々ありましたんで、
ええちょっと今回の再発したのは非常にまずいかなと、いうのは思っておりました。
でそのときにはまあ一応病院行ってちょっとしゃべったりとか、あと、メール送ったり
とかしてたんですけども、
んうう、2週間ぐらい前の金曜日に「いまから、後輩と病院行くわ」というように
メール入れたら、なんか非常に調子がいいからまあ再発で入院していたんですけども、
調子がいいので一回自宅に戻んなさいと言われたということで、
「良かったな」というメールのやり取りを、ええ2週間くらい前の金曜日に、しました。
その二日後かなんかに、ええ、仕事終わりで、うちのマネージャーから、肺炎を起こした
んですぐ病院に行ってくれと、いわれました。
それで行った時はもう、まあ意識不明ではないんですけども、その人工呼吸器をつけた状態
で、もうしゃべれない状態でした。それで約一週間半か二週間くらいありましたんで、
…まあそのときにまあ正直言うともうだめかと思いましたけどもまあとりあえず
ぼくがダメかと思ってもしょうがないんで、とりあえずその、医学的なことは
良くわかりませんけども、まあ奇跡が起きればいいなと思って、
ただ、祈りながら、一生懸命働いておりました。
―――8月の末に退院された後はかなりもう、もう復帰できるというような状況まで
気持ちとしては行って…
ちょっと病気の詳しいことは判りませんけども、ええ医学的には今白血病のそのまあ
菌というかというかどうか僕には良くわかりませんけども、白血病という段階ではないと、
白血病は治ったという段階だということをいわれまして、でも見た目はずっと寝てたり
とかだいぶ痩せてたんで、喋れたり動けたりはするんですけども、まあ即働けるかって
いうとそういう身体ではなかったと思います。
―――中島さんとしては、復帰の意欲というのはお持ちだったんでしょうか?
ええ非常に持っていたと思いますね
だから正直その11月半ばくらいに3回目2回目かな、再発した時には正直ちょっと本人は
気を、落としました、ね。 まあでもとりあえずがんばれと、
今まで全部耐えうまくいったんだから、大丈夫だっていいながら、やりました。
―――いま最後に、お会いになってあの最後にお話がきちっとできたのはいつ、
あれが最後だったというのはいつだったんですか?
話が出来たのは、ええ、再発して入院する前ですね、しっかり話したのは。
再発して入院してからはメールのやり取りと、あと、そのやっと時間が出来たんで、
じゃ、いまから行くわ、っていう日に、いや、調子いいから帰れるようになったわ、
一日週末帰るわ、っていうメールが、やり取りしたのが最後になりましたね
―――ということは今回肺炎を起こして入院してからはもう一切お話は出来ない状態
だったということですか?
そうですね、肺炎になって駆けつけたときにはもう話せない状態でしたね。
虎ノ門では中島については完全ヌルーのつもりだな。
それがよいと思う。
―――その中で何日間か…?
それでだいたい一週、2週間くらい、ありましたんで…
ここ10日くらいは、ちょっともう正直に非常にまずいという状況が伝わりまして僕ももう
仕事終わりに必ず病室に行くようにして、夜の10時だとか必ず行くようにして声を掛けて
帰るという日々がここ10日くらいずっと続いてまして、もう予断を許さないと判ったん
ですけども、その、二日前かなその、二日前に、
仕事が終わって、その、車に乗ったときに、マネージャーからちょっと今日夕方お医者さんから話があって、ちょっと今夜がヤマっぽいと、だからすぐ病院に行こうと
言われまして、だからどっちみちその日は病院に行く様にはしてたんですけども、
すぐ病院に駆けつけました。
そのときは以前と変わらず人工呼吸器をつけた状態でまあ、何がやばいのかなと
思いながら、もうこれで治んないのかなと、そのときは以前と変わらない状況で、普通どおり声を掛けまして
でいったん自宅に戻って昨日の朝、また後輩と仕事に行く前に10時ごろええ行きました、
はい
ええそっから仕事場に行って、しばらくしてマネージャーから、聞きましたけども、…
そうですね、もう、一応もう気持ちは出来てたってのは変ですけどもそういうことが
あるかもしれないってのは気持ちの中で整理がついていたんで、でも…
まあでも救いはやっぱりあの、昨日の朝、病院に行って最後に声を掛けて帰った後に
亡くなったんで…ええ…
―――いまお話聞いてますとずーっとね、毎日病院にいらしてて、気持ちの中では
日々代わらない中島さんを見てて、やっぱり自分の中で少しづつやっぱり心みたいのが
決まってたというか、決まっていったということですか?
うんそうですね、やっぱり会社からもそういう話ありましたし、うんやっぱりそうですね
なんとなく自分の中ではもう、うん、こういうことなのかなと思いながら、
もうあと祈るしかないという状況のなか、はい・・・
―――ということはまだ息があるうちに逢う事が出来たわけですね
そうですね…
―――そしてお帰りになったら、なったあと・・・
はい、もう直後でしたね…
―――なんて声を昨日は掛けられたんですか?
いやもういつもどおり頑張れよと、また来るから、ええ、一緒に漫才するぞって話をずっと
言ってましたね。
―――あの亡くなられた後でお会いになった時の中島さんの様子、お顔の表情を見て
どんな風にお感じになられましたか
やっぱりその最後の闘病のところをちょっとずっと見てたんで、
正直言って亡くなってまあ昨日駆けつけたときにはもう綺麗な顔になって
凄い安らかに眠ってる感じだったんで、まあちょっと最後は可哀想だったんで、
もう、よかったかなと、楽になって、・・・
―――じゃあかなりお痩せになっていたわけですね
そうですね皆さんが知っている状況よりは痩せてますけども、
まあでもちゃんと髪の毛も生えてだんだん外に出れる状態になってたんで、
そんなに、その、ひどい状態じゃないですね
―――結婚したばっかりでお子さんも生まれたばっかりでその辺はどう思って
いらっしゃいますか?
んーそうですねまだ息子さんも2歳なんでちょっと昨日行っても
まあ無邪気にまあ遊んでますけども、まあちょっと非常に、悲しい状態ですけども、
僕は、中島にとっては、最後その自分の息子がこの世にちゃんとあの生を為して生まれて
いるということが救いだと思いますし、なんといってもやっぱりその、奥さんが一生懸命
やってくれたことと、あと、息子もいたということでそれが中島の支えになったと
思います。もしそれがなかったら、わかんないですけどももっと中島自体のもっとあの、
精神的に参っていたかもしれないなと…
―――きのうのご様子はいかがでした、(中島さんの)奥様の?
ええ、もうちゃんとあの、 辛いんでしょうけどちゃんと、
お客様もいっぱいきますし、凛々しくちゃんと構えています…
―――テレビの番組とかでも呼びかけてるってことがありましたけど、あれはあの
その中島さんが番組をご覧になっているということがあって…?
うーん、初期というか2年前の初期の頃とおもうんですけども、そのときはまだ
お互いに希望を全然持ってましたんで、まああの正直言うと真剣な気持ちで呼びかけると
いうよりも、お笑い的な、ギャグ的に呼びかけて、ええそれをまた病室に行って
二人で笑ってるみたいな、あれ滑ってたなあみたいな話をまだよく当時はまだしてましたね。
―――でもね、竹山さんとしてもね、相方の復帰を信じてひとりで活動していらっしゃっ
たんだと思うんですが、どういう気持ちでええ一人でがんばってきたんですか、今まで?
ううん、気持ちはもう、あいつがもう病気になった時にいちおう気持ちは切り替えて、
でやってきたつもりですけど、二人でまた舞台にあがって、もとはやっぱり漫才師です
から、二人で舞台にあがってまた漫才をするということを、希望に、ええ、目標に
楽しみに思って、やっておりました。
―――生活の面でもあの支えてきたという風にお聞きになっていますが、聞いていますが
まあそれはそのサンミュージックさんにおまかせしていた面があるんで…
―――社長、どんな感じで、フォローをして?
【相澤社長】その問題に関しましてはですね、その、まあ二人の話し合いもあったと
思うんですが、ええまあ、そう入院してからの状態の中でカンニングってものをですね、
二人で築き上げてきたカンニングを続けていくために、
表に出て頑張るのは竹山と、で、裏でですね、そのネタを作ったり、先ほど言ったように
二人で笑ったりとかって、ありましたよね、そういう部分のですね、そのネタ作りとか
アドバイスを企画とかですねそういうものを二人でね、相談しながら、二人三脚で、あの、
そのカンニングを支えていこうって言うことで、あのギャラをですね、そういう風にして、
支払っていた、と…
―――あの、たとえばお金を、分けるような形ということですね
そういうことですね、はい…
―――って言うことはあの竹山さんにとっても、やっぱり中島さんは竹山さんと
ともにこう頑張ってきたんだということで・…気持ちはあのとても大きいんじゃないかと
思いますけども
【竹山】やっぱりその小学校からの同級生で、ずっと二人で一緒に居て、
けっこう芸能界目指して入ったときも結構辛い、ずっと二人とも売れずに辛いことが
続いてましたんで、ふたりでやっぱりその、あんまり自分の中ではその、してやってる
とかそういう気持ちはないですね。昔からお互いに金がないときは二人でなんだかんだで
助け合ってきた、あの普通のお笑いコンビもそうだと思うんですけども。
―――あらためてあの(中島さんは)どんな存在でしたか?
まあ家族であり戦友であり、うん、まあ、よく言われるんですけども
まあ夫婦みたいな、もんですね…
―――竹山さんにそういったことを中島さんはどんな風におっしゃってました?
なにかおっしゃってました?
いや、あのそういう性格でもないんで僕ら、僕と中島もそういう話をあんまり昔から
しないんですけども、もうなんせ長いんでもう目を見りゃわかるみたいな、関係でしたね・・
―――あえて言葉に出さなくても
はい
―――お互いの気持ちはこう
わかっている、そういう関係でしたし…
―――あの改めて中島さんのお人柄って言う意味では、あのどんなことになりますか、竹山さんからご覧になると?
んん、いやもうとりあえずもうとにかくいいやつでしたね、それはもう他の芸人仲間たち
ももうみんな知っているとは思いますけども、とにかくいいやつでした
―――たとえばどんなときに一番それを強く感じていますか?
いや、けっこう僕、僕は個人的に結構わがままな面もあるんで、ふたりでそのネタ、昔、
ネタ作ってるときでもけっこうもう完璧に僕のわがままを聞いてくれるとか、あと、何か、
なんと言うかなその、番組とかでも僕を表に出してくれる、くれたりとか、カンニングは
お前が出てカンニングだからみたいな話をやってこう、譲ってくれるみたいな、
そういうとにかく、いいやつでしたね…それは…
―――今日からお仕事なさいますよね?
はい。
―――仕事辛いですよね・・・
んーとね、そりゃつらいですけども、正直いうとその、昨日まで一緒に活動してて、急に
今日、いや昨日倒れたと言うわけではないんで、もう約2年間ひとりでやってて気持ちも
切り替えは出来て、出来てというかひとりで活動することにはなれまして
やっぱりこの2週間一番状況辛い時に、もしかしたらこういうことになるかもしれないと
ちょっと思っていたんで、自分の中ではもう、そうですね、
まあまあすっきりはしませんけども…
―――いままでね、ずうっとカンニングの竹山ですっていうふうに必ず頭にカンニングを
つけて活動してらっしゃいましたよね、それはお気持ちとしてはどういうお気持ちで?
いや気持ちは今も代わらないですね。
いちおう、そのカンニングの竹山、カンニング竹山ってことが皆さんに慣れ親しんでもらっているんで、それは別に変えずにいこうかなってのも…
―――今後もカンニングの竹山さんというってことで、活動されるんですか?
そうですね、それをあえて竹山って普通に戻す必要も、僕はないと思いますし
―――そのひとりで活動していた2年間というのは竹山さんにとってはどんなものだったんですか?
…戦いでしたね、いつかこう、いつか二人で戻れるんだっていう希望を持ちながら、
だからそのためには頑張んなきゃいけないっていう、まあ無理して頑張ってたわけでは
ないですけども。
―――いちばんこう頭にある表情ってどんな表情なんですか?
やっぱりそのネタやってる時の横顔ですかね、僕がこう左からこう見るんですけども
まあそのときの顔が一番僕が見たはずの中島の中では一番多いんで、
まあそれがもうできないのかなとおもうとやっぱりさびしいですけども…
(葬儀のアナウンス)
―――改めて、相方だった中島さんにあの、一言お願いします
そうですね、まあ、ありがとうと、いう言葉しかないですね
ええ、まあ昨日の夜ちょっと家、自宅で彼女と、しこたま、泣きましたけど、
まあとりあえずもう、まあほんと今日から年末の仕事も僕もありますんで、
僕は僕でもう一生懸命カンニング竹山として一生懸命がんばると、
そんでその、最後中島をその芸人としてしっかり送り出してやりたいと、
それが僕の、カンニングとしての最後の仕事かなと思って、
まあ葬儀とかそういうのを一生懸命がんばるからその、安心して逝け、と・・・
いうことを伝えたいと思います
―――どんな見送ってあげようと思っていますか
そうですね、やっぱりそのあいつも事務所の後輩芸人とか結構可愛がっていましたんで
うちの事務所の後輩芸人とか集めてみんなでわいわいと送ってやりたいな、
と思っています。
―――最後に
―――ファンの方に一言メッセージがあればお願いします。
ええと、まあちょっと本当はいろいろ正直に今こういう状態だっていろいろ
ファンの方も関係者の方にも喋らなければならないそういう二年間だったんですけども、
ちょっといろんなことを隠しながら頑張っていたりとかそういうふうにしてちょっと
ずっとご心配だけ掛けて噂だけ流れたりしてだとかしてて、それは本当にちょっと
申し訳ありませんでした。
ええ、非常に残念な形になりましたけども、ええ、本人中島本人も一生懸命闘って
戦いきった2年間だったと思いますんで、ええ、最後にあの中島がええ逝く姿というか
そういうのを応援してもらえると、ええうれしいと思います。
…ありがとうございました。
―――ありがとうございました。
カンニング竹山の記者会見
(2006年12月21日午前11時30分 東京四谷 サンミュージック本社会議室にて)