ちょっと!芳恵がアメリカで逮捕ですって!

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352陽気な名無しさん:2008/08/03(日) 09:49:54 ID:BfQArYNPO
飯よりも バイブ大好き 牛恵ヲタ
353陽気な名無しさん:2008/08/03(日) 09:51:23 ID:3zNDgcDt0
ニュース速報板

はてなの住人が「正論」8月号に意見広告 「男性専用車両を!」
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1217657081/

痴漢でっちあげって怖いよね
354陽気な名無しさん:2008/08/03(日) 17:49:57 ID:BfQArYNPO
牛恵ヲタ 呪われ祟られ 無惨な最期
355陽気な名無しさん:2008/08/03(日) 17:51:46 ID:BfQArYNPO
牛恵ヲタ 末はコジキか ホームレス
356陽気な名無しさん:2008/08/03(日) 17:52:48 ID:BfQArYNPO
牛恵ヲタ 脳が狂って 強制入院
357陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 16:36:11 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








358陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 16:36:52 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








359陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 16:37:25 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








360陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 19:18:52 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。









361陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 19:19:31 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。









362陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 19:21:44 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。









363陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 21:12:11 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








364陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 21:12:37 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








365陽気な名無しさん:2008/08/04(月) 21:14:07 ID:wlWGHBnr0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








366陽気な名無しさん:2008/08/05(火) 19:55:57 ID:Wi+2LeFM0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








367陽気な名無しさん:2008/08/05(火) 19:56:25 ID:Wi+2LeFM0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








368陽気な名無しさん:2008/08/05(火) 19:57:57 ID:Wi+2LeFM0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








369陽気な名無しさん:2008/08/07(木) 13:02:29 ID:hNBhfFGp0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






370陽気な名無しさん:2008/08/07(木) 13:04:00 ID:hNBhfFGp0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






371陽気な名無しさん:2008/08/07(木) 13:06:25 ID:hNBhfFGp0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





372陽気な名無しさん:2008/08/07(木) 19:45:00 ID:hNBhfFGp0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





373陽気な名無しさん:2008/08/07(木) 19:46:29 ID:hNBhfFGp0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





374陽気な名無しさん:2008/08/07(木) 19:46:59 ID:hNBhfFGp0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





375陽気な名無しさん:2008/08/08(金) 15:48:09 ID:bdoaswwQO
牛恵ヲタ 死ねばいいのに 今すぐに
376陽気な名無しさん:2008/08/08(金) 15:49:27 ID:bdoaswwQO
脳味噌に 蛆が湧き出す 牛恵ヲタ
377陽気な名無しさん:2008/08/08(金) 15:54:30 ID:bdoaswwQO
牛恵ヲタ 三度の飯よりバイブ好き
378陽気な名無しさん:2008/08/09(土) 13:36:47 ID:SLlfUQZg0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





379陽気な名無しさん:2008/08/09(土) 13:41:51 ID:SLlfUQZg0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





380陽気な名無しさん:2008/08/09(土) 13:45:13 ID:SLlfUQZg0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





381陽気な名無しさん:2008/08/09(土) 16:25:37 ID:SLlfUQZg0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








382陽気な名無しさん:2008/08/09(土) 16:28:14 ID:SLlfUQZg0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








383陽気な名無しさん:2008/08/09(土) 16:29:03 ID:SLlfUQZg0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。








384陽気な名無しさん:2008/08/11(月) 00:37:06 ID:iAOUo+lR0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。







385陽気な名無しさん:2008/08/11(月) 00:37:39 ID:iAOUo+lR0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。







386陽気な名無しさん:2008/08/11(月) 00:38:03 ID:iAOUo+lR0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。







387陽気な名無しさん:2008/08/13(水) 11:34:03 ID:q73ZqgdX0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。







388陽気な名無しさん:2008/08/13(水) 11:38:22 ID:q73ZqgdX0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。







389陽気な名無しさん:2008/08/13(水) 11:39:04 ID:q73ZqgdX0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。







390陽気な名無しさん:2008/08/13(水) 19:44:26 ID:q73ZqgdX0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





391陽気な名無しさん:2008/08/13(水) 20:13:02 ID:q73ZqgdX0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。





392陽気な名無しさん:2008/08/14(木) 10:48:56 ID:vZezh9GV0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






393陽気な名無しさん:2008/08/14(木) 10:54:11 ID:vZezh9GV0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






394陽気な名無しさん:2008/08/14(木) 11:31:51 ID:vZezh9GV0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






395陽気な名無しさん:2008/08/14(木) 11:37:12 ID:vZezh9GV0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






396陽気な名無しさん:2008/08/14(木) 11:53:27 ID:vZezh9GV0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。






397陽気な名無しさん:2008/08/14(木) 13:09:09 ID:WOoERTFUO
他に面白コピペないのかしら・・・
398陽気な名無しさん:2008/08/17(日) 22:08:32 ID:y8Rt28NkO
夏休みなのねw
399陽気な名無しさん:2008/08/22(金) 18:04:04 ID:mfBxycmMO
牛恵ヲタ 死ねばいいのに 今すぐに
400陽気な名無しさん:2008/08/22(金) 18:09:16 ID:mfBxycmMO
牛恵ヲタ 夏の暑さで 死んじまえ
401陽気な名無しさん
牛恵ヲタ 末はコジキか ホームレス