クリトリスジェミーは芳恵でできている

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405陽気な名無しさん:2008/07/23(水) 18:19:39 ID:Ro7BpHc70
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
406陽気な名無しさん:2008/07/23(水) 18:20:06 ID:Ro7BpHc70
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
407陽気な名無しさん:2008/07/23(水) 18:20:29 ID:Ro7BpHc70
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
408陽気な名無しさん:2008/07/23(水) 22:49:58 ID:MleNf27a0
>借金だらけのお釜が水商売デビュー

までよ〜んだ!!
409陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 02:51:43 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
410陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 02:54:54 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
411陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 10:59:02 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
412陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 10:59:50 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
413陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 11:00:39 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
414陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 11:41:00 ID:+7YzLA1m0
>終電をなくして帰れなくなったお釜が新横浜駅で夜明かし

までよ〜んだ!!
415陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 11:56:11 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
416陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 12:07:10 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
417陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 12:14:32 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
418陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 12:21:32 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
419陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 12:22:51 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
420陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 12:32:21 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
421陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 12:34:36 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
422陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 13:02:23 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
423陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 14:11:03 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
424陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 14:11:29 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
425陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 14:12:55 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
426陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 14:41:12 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
427陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 14:42:06 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
428陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 14:45:00 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
429陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 15:10:15 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
430陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 15:14:10 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
431陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 16:21:01 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
432陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 16:22:13 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
433陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 16:22:55 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
434陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 18:07:03 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
435陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 18:12:53 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
436陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 18:23:54 ID:r/UyQNJw0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
437陽気な名無しさん:2008/07/24(木) 21:21:39 ID:+7YzLA1m0
>敗れた山田はお釜にされた

までよ〜んだ!!
438陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 02:16:23 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
439陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 02:17:09 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
440陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 02:17:39 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
441陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 10:08:32 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
442陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 10:09:49 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
443陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 10:10:25 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
444陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 12:45:36 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
445陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 12:46:15 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
446陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 12:46:50 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
447陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 15:07:57 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
448陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 15:08:38 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
449陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 15:09:10 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
450陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 17:01:02 ID:D1Xf80950
>お釜になったのは親のせい

までよ〜んだ!!
451陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 19:43:23 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
452陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 19:44:22 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
453陽気な名無しさん:2008/07/25(金) 19:52:05 ID:pHj2QExH0
1975年3月 マッハ文朱が「花を咲かそう」でレコードデビュー。ジャンボ宮本に勝利し16歳でWWWA世界王者となる。
1976年2月 マッハ文朱が引退。ジャッキー佐藤とマキ上田がビューティーペアを結成しWWWA世界タッグ王者となる。
1976年11月 ビューティーペアが「かけめぐる青春」で歌手デビュー。
ビューティ・ペアが女子高生を中心に大人気となりブームが起こる。プロレス版宝塚とも言うべきイメージが作られ、
客層も一変する。1977年8月 ナンシー久美が「夢見るナンシー」で歌手デビュー。
1978年4月 ナンシー久美とビクトリア富士美のゴールデンペアが「ソーダ水の向こうに」で歌手デビュー。
1979年3月 トミー青山とルーシー加山のクイーンエンジェルスが「ローリング・ラブ」で歌手デビュー。
1981年2月 ジャガー横田がジャッキー佐藤に勝利しWWWA世界王者となる。ミミ萩原は池下ユミに勝利しオールパシフィック王座に就く。
1981年12月 ミミ萩原の「セクシー IN THE NIGHT」、デビル雅美の「燃えつきるまで」が同時リリースされる。
1983年5月7日 ジャガー横田がWWWA世界戦、髪切りデスマッチでラ・ギャラクティカに敗れ王座から転落。
1983年8月 長与千種とライオネス飛鳥がタッグチーム「クラッシュギャルズ」を結成。 1984年8月 クラッシュギャルズが「炎の聖書」で歌手デビュー。
1985年8月 長与対ダンプの敗者髪切りマッチが行われ敗れた長与はリング上で丸坊主となる。 1986年3月 山崎五紀と立野記代のJ.B.エンジェルスが
「CHANCE」で歌手デビュー。
1986年 女子プロレス人気に着目してジャパン女子プロレスが設立される。
1986年11月 長与がダンプに敗者髪切りマッチの雪辱戦で勝利する。
1987年4月 試合中の事故で宇野久子(後の北斗晶)が首を骨折。
1988年5月 堀田祐美子と西脇充子のファイヤージェッツが
「闘え!ファイヤージェッツ」で歌手デビュー。
1988年3月 北斗晶とみなみ鈴香の海狼組(マリン・ウルフ)が
「颱風前夜(The Eve of Fight)」で歌手デビュー。
1989年 クラッシュギャルズ引退後は冬の時代が訪れるもブル中野、
アジャ・コングらヒールレスラーが激しい抗争を繰り広げる。
1990年 ユニバーサル・プロレスリングの旗揚げ興行にアジャ・コング、
バイソン木村、前田薫、高橋美華が出場、女性ならではの俊敏な動きが
男子プロレスのファンに注目される。
1990年11月14日 ブル中野とアジャ・コングが金網デスマッチに挑む。
中野が金網の最上部からのギロチンドロップを放って勝利。
1991年1月 アジャ・コングとバイソン木村がジャングル・ジャックを結成し
ブル中野・井上京子組との髪切りタッグマッチで敗れ丸坊主になる。
1991年11月 井上貴子が「奇跡の扉」で歌手デビュー。カップリングには
豊田真奈美と三田英津子のミント・シャワーズの「TIME TO GO」が収録されている。
1992年7月 FMWのシャーク土屋とクラッシャー前泊が全女の興行に乗り込み挑戦状を叩きつけ、
団体対抗戦の機運が高まる。
1992年8月 山田敏代と豊田真奈美が敗者髪切りマッチを行う。敗れた山田は丸坊主に。
1992年9月 ブル中野と北斗晶がFMW横浜スタジアム大会に出場。かっての後輩である工藤めぐみ、
コンバット豊田組に勝利。これを機に、各団体に交流を呼びかける。
1993年4月2日 横浜アリーナで「全日本女子プロレス創立25周年記念 夢のオールスター戦」が開催される。
北斗晶対神取忍(この日から北斗は「デンジャラスクイーン」と呼ばれるようになった)の壮絶なファイトや、
セミファイナル中に夜中12時を超え、終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど、
伝説的な興行となった。
1994年11月 女子プロレス団体では初めて、東京ドームで興行を行う。
空席が半分以上あった。段取りが悪く、またも長時間興行となり、終電に間に合わない人が続出、
これを機に女子プロレスブームも終焉。
リレハンメル冬季オリンピックのアメリカ代表、トーニャ・ハーディング(英語)を
獲得すると宣言したことから話題を呼んだが実現はしなかった。
女子アマレス協会もこの興行に協力し、山本美憂、浜口京子らが出場した。
1995年7月 ダイナマイト・関西がアジャ・コングとのWWWA戦に勝利。赤いベルトが初めて他団体に流出する。
1997年7月 山田敏代がGAEA JAPANに移籍。アジャ・コングが8月の日本武道館での興行を最後に退団すると発表。
1997年8月20日 日本武道館での興行中に井上京子、玉田りえ、府川由美がフリー宣言。
これを端緒として経営不安が表面化する。
454陽気な名無しさん
"When Fumie asked me, I asked Miki, and she said it's okay because when [Miki] was in Japan,
she used to skate at the same rink as Fumie, [2006 Olympic champion] Shizuka Arakawa,
everybody," he said.
On this day in mid-July, Ando -- who withdrew from the 2008 ISU World Figure Skating
Championships during the free skate after placing eighth in the
short program -- declined questions, but Morozov said she is training well.
"She had shoulder and leg injuries at worlds, but she is better now.
She is even doing quad Salchows," he said.
Suguri's new short is choreographed to the soundtrack of Fanfan,
a 1992 French comedy romance. Suguri called it "little-known music."
As for the long, she said, "We don't know yet. Nikolai has lots of ideas.
We're thinking about different music."
Technically, she is working to perfect a triple-triple combination as well
as the triple loop, a jump she has not landed in recent competitions.
"Nikolai has fixed [the loop] a lot," Suguri said. "I wish to have the
loop this season and also maybe a triple Axel."
"She landed loop a couple of times [in practice] already," Morozov confirmed.
"I like to work with Fumie; she is a very nice skater."
Suguri, who is scheduled to compete at Skate Canada and Cup of Russia this fall,
especially enjoys sharing the ice with another of Morozov's pupils, world junior
champion Adam Rippon.
"I need someone to push me; I'm so glad I'm skating with Adam," she said. "Boys jump
harder than girls. It keeps up your motivation. It's so much different from the way girls practice."
Suguri is also able to test her mettle against her countryman Oda, who began training at Ice House this spring.
"This is a very nice place to train. The coach is great, and the other skaters are also great,
so I am very happy here," the 21-year-old said. Both he and Suguri have settled in to apartments
just 10 minutes from the rink.
The 2008-09 season is a comeback for the diminutive Japanese athlete. In July 2007, while in
his hometown of Osaka, he was cited by police for driving his moped under the influence of
alcohol. The Japan Skating Federation suspended him from international competition until
December 2007. Oda apologized for the incident, paid a fine and accepted the suspension.
Although he could have competed at Japanese nationals for a spot on the world team,
he elected to skip the season.
"I was not glad to take off last year," he said. "But I think it was a very good time
to think, 'Who am I? What should I do for the future?'"
In his down time, Oda turned to Lori Nichol to choreograph two new programs. His short,
set to Khachaturian's "Masquerade Waltz," was created in November 2007; his free to
"Warsaw Concerto," a virtuoso piano piece, was done in February. Like Morozov's
other pupils, Oda is planning to compete at the Moran Memorial Championships,
held at Ice House in August.
Because Oda did not compete last season, he is entered in just one fall Grand
Prix event, Japan's NHK Trophy, in November.
"I don't have two Grand Prix, only one, but I am also doing the Nebelhorn Trophy
in Germany in September. I need the points," he explained.
"My goal is, first of all, the podium at [Japanese] nationals.
I want to make the world team. [Japan qualified three men for 2009 worlds.]
After that, my goal is to do as many international competitions as possible
and skate as well as I can. I would like to put the quad toe loop in both
the short and long programs, if it goes well in practice."