1999年1月:初アルバム『A Song for ××』でオリコンチャート1位を初獲得。約150万枚を売り上げた。 表題曲「A Song for ××」をはじめ、自作の歌詞が大きな支持を受ける。 1999年半ば頃からファッションリーダーとして注目を集め、「女子高生のカリスマ」と呼ばれ社会現象となる。ネイルアート・大きなサングラス・ヒョウ柄などのアイテムを真似る女性が急増。2000年のベストドレッサー賞を受賞した。 1999年、紅白歌合戦に初出場。以来6年連続出場中。 2000年夏、左耳の疾患によりコンサートツアーを一部延期。のちに左耳の聴覚が弱くなる後遺症を負ったことを公表している。 2000年11月、全日本有線放送大賞でグランプリを受賞、以降、2001年と2002年のALL JAPANリクエストアワード、2003年のベストヒット歌謡祭でもグランプリを受賞し、4連覇を達成した。 2000年12月13日発売のシングル『M』で初の作曲を手がけ(『CREA』名義)、ミリオンセラーを記録する。 2000年、初のカウントダウンライブを開催。以来毎年の恒例となっている。 2001年3月28日、ベストアルバム「A BEST」を発売。宇多田ヒカルのアルバム「DISTANCE」との同日発売が注目を集め、どちらも400万枚以上を売り上げた。 2001年夏には、女性ソロ歌手としては安室奈美恵以来2人目となる東京・大阪・名古屋・福岡の4大ドームツアーを行った。札幌は完成直後の為、除外。
2001年秋にはアルバムの発売が延期されたとの情報で所属レコード会社エイベックスの株価が下落するなど、エイベックスの看板歌手としての側面も注目されるようになった。 また、一時は同社の売り上げの4割を占めたこともあり、同社の経営体質の弱点として「あゆ依存」という言葉も使われている。 2001年末に『Dearest』で日本レコード大賞受賞。以降2002年に『Voyage』、2003年に『No way to say』で史上初の3連覇を果たす。 2002年7月に発売したマキシシングル「H」が、日本のCD売り上げ全体が低迷した同年において唯一のミリオンセラー(シングル部門)を記録した。 2002年秋、シングル「Voyage」の発売に合わせて短編映画「月に沈む」(監督:行定勲)が公開。歌手デビュー以来初めて女優業を行う。
1999年1月:初アルバム『A Song for ××』でオリコンチャート1位を初獲得。約150万枚を売り上げた。 表題曲「A Song for ××」をはじめ、自作の歌詞が大きな支持を受ける。 1999年半ば頃からファッションリーダーとして注目を集め、「女子高生のカリスマ」と呼ばれ社会現象となる。ネイルアート・大きなサングラス・ヒョウ柄などのアイテムを真似る女性が急増。2000年のベストドレッサー賞を受賞した。 1999年、紅白歌合戦に初出場。以来6年連続出場中。 2000年夏、左耳の疾患によりコンサートツアーを一部延期。のちに左耳の聴覚が弱くなる後遺症を負ったことを公表している。 2000年11月、全日本有線放送大賞でグランプリを受賞、以降、2001年と2002年のALL JAPANリクエストアワード、2003年のベストヒット歌謡祭でもグランプリを受賞し、4連覇を達成した。 2000年12月13日発売のシングル『M』で初の作曲を手がけ(『CREA』名義)、ミリオンセラーを記録する。 2000年、初のカウントダウンライブを開催。以来毎年の恒例となっている。 2001年3月28日、ベストアルバム「A BEST」を発売。宇多田ヒカルのアルバム「DISTANCE」との同日発売が注目を集め、どちらも400万枚以上を売り上げた。 2001年夏には、女性ソロ歌手としては安室奈美恵以来2人目となる東京・大阪・名古屋・福岡の4大ドームツアーを行った。札幌は完成直後の為、除外。
2001年秋にはアルバムの発売が延期されたとの情報で所属レコード会社エイベックスの株価が下落するなど、エイベックスの看板歌手としての側面も注目されるようになった。 また、一時は同社の売り上げの4割を占めたこともあり、同社の経営体質の弱点として「あゆ依存」という言葉も使われている。 2001年末に『Dearest』で日本レコード大賞受賞。以降2002年に『Voyage』、2003年に『No way to say』で史上初の3連覇を果たす。 2002年7月に発売したマキシシングル「H」が、日本のCD売り上げ全体が低迷した同年において唯一のミリオンセラー(シングル部門)を記録した。 2002年秋、シングル「Voyage」の発売に合わせて短編映画「月に沈む」(監督:行定勲)が公開。歌手デビュー以来初めて女優業を行う。