リンク見なくてもわかるけれど、内田樹でしょう。彼が若い頃書いた
ブランショ論が最近、そのブランショの「文学はいかに可能か」と
ポーランの「タルブの花々」と合わせて『言語と文学』というタイトルで
出たけれども、本当に最近くだらないエッセイを書いてるあいつなのか、と思う
すばらしさ。齋藤美奈子の例のフェミコードでも扱われていたけど、「おじさん的〜」なんて
読めたもんじゃない。合田正人とレヴィナスを訳したりしてたりしたのと本当に
同一人物なんだろうか。で、社会学者じゃないでしょう、彼は。フランス文学専攻のはず。
で、福田和也と似たようなことをやりながら、ああいう才能はない。
赤川に言ったのとまったく同じことが内田にも言える。勝手に黙って自分ひとりで
やってなさい、ということ。他のひとに命令したり、勧めたりする必要はまったくない。
>それでも私がこの尊敬する同僚からの致命的な批判をまぬかれているのは、私が「できないことには手を出さない」「知らないことには口をはさまない」という保身術を
>実行していることと、それでも(欲が出て)手を出したり口を出したりする場合は、必ず「自分がどれくらい信用できない人間であるか」の告知を怠らないこと(それは
>「私の言うことの真偽判定はみなさんがしてください」という「訂正の回路」をつねに開いているということである)によって担保されているからである。
ひとに勧めなくていいわけ、こんなこと、54歳にもなって。赤川ほどマッチョな物言いではない(おじさんだから?)けど
押し付けがましい。しかも上野〜とかっていう筆者が尊敬する歴史学者の同僚からの批判がどう、って知ったことではない。
赤川は黙って「オナニー」研究やってればいいし、内田は黙ってコラボ研究だの、レヴィナス研究だのやってればいいわけ。
少子化問題でわけのわからないフェミ批判やったり、上野・吉見論争使って自分のくだらない処世術語ったりしなくていい。
だいたい構築主義対実証主義なんてのがにせの問題。上野千鶴子が叩いたのは構築主義を理解しない
素朴な実証主義でしょう。彼女は網野善彦のことは尊敬していたと思うけれど、彼はその両方を
やろうとしてたわけで、それは中沢新一の書いた文章を読めばわかる。そして、もちろんフーコーも
コレージュ・ド・フランスでの講義でどれだけ実証主義的な手続きを大事にしてたか、講義録を
読んでもわかるし、講義に出席していた蓮實の証言もある。
というか、内田はフーコーの『狂気の歴史』や『監獄の誕生』を読んだことがあるんだろうか?
フーコーを仮に「構築主義者」というのであれば、内田はまったくそうではない。自己批判なんてせんでよろしい。
知らないことには口を出さない、と言いながら、結局、口を出してるから、
>>240のリンクが
ここに貼られたりするわけでしょ。
上野千鶴子の責任ではないけれど、彼女と同世代の東大出身の地方大学の教授、助教授の男どもが
彼女に対して抱いてるルサンチマンほど、ウザいものはない。「あの女が東大で、なぜ俺が」という
どうでもいい動機があるから、学問的には無価値な文章が量産される。
>>240にある上野〜っていう歴史学者の批判も、上野千鶴子を批判することと構築主義を批判することの
区別もついてない。あれじゃ、上野千鶴子に相手にしてももらえないでしょ。
で、「日本史研究」って購読者何人の学術雑誌なわけ? なんでそんなとこにしか書けないのか。
だから、ダメなわけ。結局、自信がないんでしょ。才能もなければ、学問的誠実さもなく、
学会での政治しか考えてないから、そういう場所に書く。従軍慰安婦問題を専門に
素朴な実証主義でやってきて学会内でそれ相応の評価を受けていたのが、なわばりを荒らされ、
しかも業績を否定されかねないんで、あわててるだけにしか見えないね、俺には。
本当に上野千鶴子と一戦交える気があるなら、もっと大きな声で名乗りをあげないとね。