☆☆☆☆☆宮崎留美子からのお願いです。☆☆☆☆

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96禁断の名無しさん
★TS/TG/TV って区別できるの?
     〜レッテル貼りと序列意識はナンセンス〜

 ホームページでも、その他でも、宮崎留美子として顔を見せて自己紹介するときには、私は、自分のことを、一応「トランスジェンダー(TG)」だとして話をしている。
 あとで詳しく述べるように、どのカテゴリーに入るのかを区別するのはとてもナンセンスなことなのだが、だいたい自己紹介というものは、所属とか地位とか、とにかく、自分がおかれている位置づけを述べることでその役割を果た
しているというのが慣例だ。
 宮崎留美子という自分をを紹介するとき、「学校の教員をやっていて、○○科を教えています」だけでいいのであれば、もちろんそのようにしたいのだが、女性の姿をしていることの説明をしなければならない場面はかなり多い。というよりも、そのことを話すのが宮崎留美子としての自己紹介のメインにしなけ
ればならないことがほとんどだ。
 さてそうなると、自分のことをどんなふうに呼んだらよいのだろうか。あるカテゴリーを表す単語を使うことで、自分のことを概括的に知ってもらえるというメリットはどうしてもある。いろいろと考えると、トランスジェンダーという語が一応は妥当だと判断しているので、だいたいはこのように言っている。そして付け加えて、ときには、パートタイムのトランスジェンダーなどと話すこともある。

 トランスジェンダーやトランスセクシュアル、トランスヴェスタイトという区別し分類することに困難があるというのがこの項での主題なのだが、一応、三つに分類されている。しかし、この境界というのは実に曖昧なことが多い。
そもそも本当に区別できるのかな?というのが、私が今抱いている実感だ。女装されているいろんな方にインタビューしたのだが、ことさらに区別をしあれこれ言うことの難しさをいっそう感じたものだった。それほどに、境界などあってないようなことがらであるのだ。
 ところが、ここに、困った現象が世の中には存在している。TS(トランスセクシュアル)、TG(トランスジェンダー)、TV(トランスヴェスタイト)をことさらに区別して、「自分はTSなのよ。性同一性障害なのよ。TVの人たちと一緒にしないで」などとのたまう御仁がいるのには 閉口してしまう。私のように、長いこと女装を続けていると、このような困った方々にも何回か出くわすことがあり、そのたび事にやれやれまたかと憂鬱になってしまったものだった。もともとマイナーな私たちが、私たちの内部で区別しあってどうするのと、人間の浅はかさが私を憂鬱にしたのだ。
 区別するだけならまだましなのだが、なにかしらそこに序列意識が見え隠れしていることが多い。性別違和感をもっている人というか、広く言えば女装者の中で、TSの人がより女性に近い真正なるタイプで最上位にあり、次がトランスジェンダー、そして、最下位に位置するのが、女性のまねごとだけをしていて心はちっとも女性ではないというふうにみなされているTVだ、というのだ。なんと馬鹿馬鹿しいことか。
 などと、このように述べてきても、女装とかトランスジェンダーとかなどといったことがらをあまり知らない方は、たぶん何のことかわからないかもしれない。もっともなことだ。
97禁断の名無しさん:2000/12/25(月) 01:15
 でも、理解するのはそんなに難しいことではないと思う。他の分野でも世間にはよくあることでもあるからだ。
 同じようなカテゴリー、職業の場合は同じような業種といってもよい、人間は優劣といった序列づけの中で自分を位置づけようとすることはよくあるではないか。類似性があり接近しているからこそ、ちょっとしたちがいをより拡大してとらえ、少しでも自分を上におこうとする発想は人間の宿命なのかとさえ思われるほどの悲しい性だ。
 私たちの業界だって似たり寄ったり。「教える」という職業にも、類似性をもった業種があり、意識上の序列化がないといえるだろうか。
 代表的なものは「学校の教員」だが、これだってもう少し細分化すると、小中・高・障害児校などの校種がある。他には、塾教師や予備校講師の職がある。
 塾や予備校の先生に比べて、学校の先生は「上の位置」にあるという潜在意識があるかもしれない。とはいえ、学校教師が塾・予備校教師より「上」という意識だけではなく、逆に最近では、予備校教師の方が「すばらしいのだ」と
いう意識も増えてきているようにも感じられる。「自分たちはヤクザな商売だ」と自分の職を卑下してみせるところに、ある意味では余裕さえ感じさせられることもある。一部の有名講師のことでしかないのかもしれないが、私のような公立学校の教員に比べてその何倍もの収入をえている予備校講師のなかには、「予備校講師の方が学校教員より上なのだ」という逆意識があったとしても不思議ではない。それだからこそ、最近では、自分の職業選択として、意識的に、学校の教員より予備校講師をめざすという若者もそれなりに出てきている。
 序列というものが片方向だということではなく双方向であることも珍しくはない。だから、一方向的な序列意識である「部落差別」や「障害者差別」のこととはやや趣を異にするし、その深刻度を同列に並べたいとも思わない。しかし、自分たちのよりよい生存環境をつくっていかねばならないときに、そのための連帯を損ねることにはちがいがないわけで、その意味では、双方向であったとしても、序列意識はやはり問題だと思うのだ。
98禁断の名無しさん:2000/12/25(月) 01:21
 私たちTS/TG/TVの内々の意識も、大きな枠づけとしては、TSを上位としてTVを下位とし、TGがその中間といったところなのだが。
 こういったことの前知識のもとで、今少しトランスジェンダーに固有の問題をみてみよう。
 トランスジェンダーという単語はかなり広義に使用できる言葉でもあるため、私は自分のことを一応はそのように言い表している。しかし、私がトランスジェンダーを名乗っているのが気に入らない人もいて、次のようなことを言われたことがあるのだ。
「あなたはTGとおっしゃっていますが、朝日新聞投稿記事をはじめとする意見や画像などをみていると、TVのような印象をうけます。私は専門医の診断でTGといわれれていますが、あなたは診断を受けた上での解釈でしょうか?」 私のことをTVだと思われようとなんと思われようと、そんなことはどうでもよいことだと思っているのだが、しかしこの方はどうしても区別したいらしく、しかも、私がTGを名乗ることに異議を唱えているようなのだ。区別のナンセンスさはあとで述べるとして、この方の発想にはもうひとつ問題があると思っている。しかもそのことは、けっこう大きな意味をもつ問題でもあるのだ。
 それは次の部分「私は専門医の診断でTGといわれれていますが、あなたは診断を受けた上での解釈でしょうか」
 癌であるとか、骨折したとか、そのような物理的に認知できる症状であるならばいざしらず、精神の問題、心のありようについて、専門医ならばまちがいのない判断を下せると考えているところに、大きな危惧を抱かずにはいられない。性同一性障害を判断するガイドラインはある。しかしそれですべてを的確に判断できるわけではない。医師の診断を錦の御旗のようにして物事を考えていく姿勢は、私は危険であるとすら思っている。
 というのは、私たちの社会は、過去に、同性愛者のことを「性倒錯者」だとして変態扱いされてきた歴史があるからだ。同性を好きになるというのは、ひとりひとり個性のありようなのだが、医学の名の下に性倒錯だと差別さえしてきた事実があるのだ。医師の診断は、人の意思と無関係に起こる自然科学的事象だけで行われるのではない。人間というものを洞察する哲学とか価値観が関わってきているのだ。正常と離れた「精神的異常者」とみなすのか、それとも「個性」とみなすのか、これは自然科学的事象での判断だけですむことではない。
 私の手元に東京都の機関である東京都女性相談センターが作成した高校生向けの冊子がある。「クロスロード2000」という冊子なのだが、そのなかの巻頭言にあたるメッセージの中に次のような文章があった。「ゲイもレズビアンも多様な性のありようの一つなのだが、長い間『性倒錯』という精神障害だとされてきた。つまり、医学に名を借りたまやかしだった」この部分は、佐々木静子さんという産婦人科医が担当して書かれている。過去に長い間なされてきた医師の診断が、実はまやかしだったのだということを明快に述べられている。科学に名を借りた物言いが、実は差別を助長することであったりするということが、私たちの社会では何度となくあったということなのかもしれない。
99禁断の名無しさん:2000/12/25(月) 01:21
 医師の診断がものごとの出発点であるといった発想は、これはやめられた方がよいと私は考えている。
 決して、トランスジェンダーなどの性同一性障害にかかわることで、医師の診断が意味がないということを言っているのではない。むしろ逆だ。性転換手術(性別再判定手術)を行ったり、ホルモン治療を行ったりするとき、これは、自分の体に人為的な行為をくわえることになるわけで、副作用の問題も出てきたりする。一度手を加えたら元に戻ることができない不可逆行為でもある。術後の精神面での相談もありえるだろう。ホルモン治療も含めて、闇で安易に手術を行うのではなく、形成外科医だけではなく、ちゃんとした精神科医の適切な診断をしてもらうのは当然だと思っている。
 人生といったスパンでみれば、性器を変えるという性転換手術はその一瞬であるけれども、性を変えるということは性器を変えるということではないのだ。人間の場合、性というもののありようを決定するのは、性器がどうであるかといったセックス(生物学的性)にあるのではなく、社会の中での性役割にかかわるジェンダー(社会的性)によって規定されているのだというのが現時点での学問的到達点でもある。一瞬の手術ではなく、その後の「その人の生き方」が性を変えていくのだということを考えれば、性同一性障害のことを正しく理解している精神科医の診断はとても大切なことだと思っている。
 ただし、性転換手術などの医学的治療を当面は考えていない人が、自分の性別違和感の状況をみつめていくのは、医師ではなく自分自身なのだよということ。医師の診断は、自分が自分のことを見極めるためのアドバイスという位置づけであるべきだと私は思うのだ。
 私がここで言いたいのは、医師の診断を錦の御旗にした運動や発想というものは危険なあり方なんだよという〈ものの考え方〉を指摘したいということにつきている。
100禁断の名無しさん:2000/12/25(月) 01:22
 この序列意識とやらは、日本だけのことではないようだ。同じような私たちには同じような意識が芽生えるということかもしれない。
 アメリカでも同様みたいである。
 『トランスジェンダリズム 性別の彼岸』(松尾寿子著 世織書房)という本がある。この中で、トランスの人たちの問題として、「もっとも越えがたい壁は、当事者間に横たわるヒエラルキーの問題だ」ということがあり、著者がインタビューしたトランスセクシュアル(TS)のティナさんの次の言葉を引用している。
「皆がね、自分自身でいていいんだよって認めることができれば、一切のルールはなくなるのに。そうすれば、生得上の性別やTSやTVをランクづけする、こんな果てしのないゲームに終止符を打つことができるのにって、私は時々思うんです」やはり、よその国でもかなり深刻な問題のように思える。

 私は、TS/TG/TVを必要以上に区別し、「私とあなたはちがうのよ」というような意識になることは、なんの意味をももたらさないどころか有害であるとも言えると思っている。意味がないにも関わらず、私たちの世界での内々で、こういった意識が決してなくなっていないことは困ったことであり本当に悲しいことだ。
101禁断の名無しさん:2000/12/25(月) 01:23
(注1) 性同一性障害の方で、自分は女なのだと思っている方は、女装という語は自分にとっては適切な言葉ではないと考えている人も多い。女を装っているのではなく、女性そのものなのだからということからだ。しかしここでは、生まれつきの性が男性で、いろいろな段階で女性に性をチェンジする人を「女装者」と一応は呼び習わしておく。広い意味ではトランスジェンダーといっていいかもしれない。

(注2) トランスジェンダーには、広義の意味と狭義の意味とがある。トランスセクシュアルまで含めて、性別違和感をもち「女性」としての生活を部分的にであっても送っている人を呼びあらわす場合が広義の意味だ。一方、男性としての身体に強く違和感を覚え性転換手術まで受けようとする人たち(トランスセクシュアル)や、服装をチェンジすることで満足感をえる人たち(トランスヴェスタイト)と区別して使う場合は、狭義での意味となる。