でーやん≪出山知樹NHKアナウンサー応援スレッド≫bV+α!
あたらしい挨拶を考えました。「バティストゥータ!」
挨拶なんてしたくないんですよ。ホントは。まず最初に、君がはたしてオレと知り合いになる価値のある人間かどうか、それを問いたい。君と一緒にデニーズに行ったら、君はいつでもオレが二番目に注文したかったメニューを注文して、
オレになんのわだかまりも申し訳なさも感じさせないようなタイミングとやり方で、「二番目に注文したかったメニュー」をわけてくれるのかい?消費税分だけおごってくれるのかい?36時間以内に2割り増しでメールを返信してくれるのかい?
ちょうど忘れかけてる頃を見計らって、毎回違う言葉で同じ意味で、
オレを褒めてくれるのかい?大事なのは説得力だけだぜ。真実かどうかなんて問題じゃねえ、ホントっぽいと信じられるかどうかだけが大事なんだ。褒めてくれるのかい?
そして次に、君がいつでもオレのことだけを考えていて、でもそんなこと普段はおくびにも出さずにいつでも軽快に、
ステップはいつでも軽快に、ツッコミはあくまで的確に、でくのぼうと呼ばれる、
そういう人に君はなりたい、と今ここで誓いなさい。
オレは自意識過剰で極端に照れ屋なんだ。そしてもしかしたらマザコンだ。
そんなわけで、ホントは挨拶なんてしたくないんです。だけども君が好きだよ。告白部作ったんだ。君が好きだよ。いつでも君の前では新鮮な気持ちでいたいんだ。だから、あたらしい挨拶。「パルプンティッシモ!」
世の中にはホントに数多くの「どんな言葉も役に立たない瞬間」があって、その瞬間と同
じだけの「決まり文句」というものがある。たとえば、「お気持ちお察しいたします」と
いうとてつもなく優秀な言葉があって、この種の言葉を生んだ日本人の知恵には感服せざ
るを得ないわけなんである。
「お気持ちお察しいたします」つまり、「気持ちはわかるけど、あえてそれを言葉にし
てもしょうがない、勇気づける言葉は何も見つからないけど、でもそばにいるよ、スタン
ド・バイ・ユー!」なんである。素晴らしい。曖昧な肯定の空気の共有。言葉の無力さを
知るその謙虚。
でもワタクシは、決まり文句をそのまま口にすることの恥知らずを問いたい。決まり文
句まで昇華させるには必ず歴史が必要だったはずだ。定期的に訪れる「言葉の無力化した
瞬間」に対峙して、それでも何か言いたい、言わなければならない、という繰り返しが洗
練された決まり文句を生んだんだろう。でも、でもね。既に確立された決まり文句を口に
するのって恥ずかしくないか?何もできない自分に開き直ってないか?閉店間際に流れる
「蛍の光」って情けなくないか?
そんなわけで、まったく新しい決まり文句を開発するんである。なにしろ、まったく新
しい種類の状況がたくさん生まれてるんだから、何か言いたい、言わなければならないと
思うんだったら今までにない決まり文句が必要になるんである。
思考が知であるか思考であるかを区別しないのは低い段階である。
しかしそこにおいても、無意識にもかかわらず、この原理が現れなければならない。
近年、厳密な知を自由な想像力との一致にもたらす試みがなされた。
これは、思考がより一般的な思考であることによって可能であるが、
その下に知もまた包括可能でなければならない。
見出されたものは、二つの極点、すなわち主語の最高存在と述語の最高存在による
判断の基礎付けであった。
ただ再び主語であるものだけについて、それによって述語付与されるものすべてが
妥当する。
このことがいまや知に適用されるべきである。
知においては、思考と存在の同一視が端的に可能なものとして定立される。
この同一視が生じるところに知がある。
私たちは物の等しさを、個々の物が知の中に定立されることによって
予想するように見えるが、―そうでなければほかに知は存在しないから―、
従ってまた絶対的な知は生じ得ないが、
しかしながらそのような一致が前提される。
これに対して懐疑主義的な抗議がなされ、次のように言う。
人はたとえば色のような私たちの感覚の有機的機能が
いかにして対象の中にあるべきなのかを考えることができる。
したがって人は、思考を判断の形式によって対象の中に置くことができない。
これは単に自然的領域のみならず、倫理的領域にも妥当する。