○●囲碁 雑談・雑学・質問スレッド 第14局○●

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115転記
2005.8.2朝日「棋士快声」工藤紀夫九段
日本棋院副理事長から理事長代行になって7ヶ月過ぎた。
「私は理事長の適格者ではない。どなたか早く理事長になっていただきたいのですがね。」
棋院舵取りの責任者として当面の課題は「子供への普及と棋院財政の建て直し」という。
難題は財政だ。昨年度の決算は、千葉市幕張の研修センターの売却損が主因となって
2億8500万円の赤字。アマの会員や免状料収入も漸減傾向に変わりなく、今年度は約2億円の赤字だ。
「ファンの極端な高齢化と、かつての放漫経営が原因。『何とかなる』との甘い感覚が棋院内に
あるようだが、待ったなしのがけっぷちなんです。経費節減には限界があり、棋士と職員の給与に
手を付けざるを得なくなるでしょう。」・・・

2005.8.9朝日 囲碁の楽しみ 戦争を超えて
今年は戦後60年。「戦中の囲碁」を改めて振り返ってみる。
日本棋院の戦前の本拠は東京・溜池にあった。棋院創立翌年の25年に完成。鉄筋コンクリート造り
2階建て、桃山時代の御殿のようなたたずまいだった。だが、45年5月25日、米軍の空襲で全焼した。
戦後、東京・高輪を経て71年、市ヶ谷に落ち着いた。
溜池の棋院焼失のため第3期の本因坊戦は45年7月、長老の瀬越八段が奔走して郷里に近い広島で
打たれた。第1局は市内の民家、第2局は「空襲の危険が大」という警察の命令で同市西郊の会社寮、
その3日目の8月6日朝、前日までの手順を並べ直したところで、原爆に見舞われた。爆風で縁側の
窓ガラスが粉々になった。幸いけがはなかったが、瀬越八段の三男は市内で被爆して死亡した。
この時挑戦者だった岩本さんは戦後、自分の土地を売って得た5億円を日本棋院に寄付。その基金で
ブラジルや米国に囲碁会館が出来た。米シアトルの囲碁会館の外壁には原爆対局の寄付が掲げられ
囲碁が戦禍や敵対を超えて、親善と友好に役立つことを証す記念碑となっている。