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外伝弐 歪
「ようこそ──」
凛とした女の声が、風に乗って聞こえてくる。
「桜之杜──真神の園へ」
白い百合の着物を着た女が、居並ぶ者たちより一段高くなった場所から、高らかにいった。
その言葉を待っていたかのように、此処に集った多くの男や女たちは、その瞳を──まるで、それが来るべき時代の希望の閃光であるかの如く、眩いばかりに輝かせた。
どこからともなく拍手が沸き起こり、それは、やがて波紋のように広がって、できたばかりの木造の校舎を震わせた。
その光景を、少し離れた桜之木の上から眺めていた俺は、肩に抱いていた刀を持ち直すと、地面に飛び降りた。
「こんな処にいたのか──」
着物の裾を直す俺に、背後から野太い声が響いた。
「苦手なんだよ、ああいうトコは」
人が近付いて来る気配を感じていた俺は、振り向きもせずに答えた。
「この後の会合には、出席するのだろうな?」
「……」
そういえば、今日の夕刻に円空の爺さんが主宰で、祝賀会という名目で御偉いさんたちも集まる会をやると聞いていた。
野太い声の問いには答えず、俺は、持っていた刀を右肩に乗せ、大きく欠伸をした。
「これからは、剣舞より智恵が必要な時代になる」
声の主は、真剣な声音で続けた。
「新しい時代の夜明けだ。これから忙しくなるな」
「……」
「お主も、俺たちと共に時諏佐先生と──」
「まだだ……」
「……?」
「まだ、俺はやらなきゃならねェ事があるんだよ」
「やらなければならぬ事?」
「あァ」
俺は、振り返ると僧服姿の大男──雄慶を一瞥した。
「この消えていこうとしている時代の残り火がある内に──この剣が振るえる内に、血が滾り、身も心も燃えるような死合いを、もう一度してェのさ」
「京梧……」
「俺は、この剣一筋で生きてきた。この剣の赴くままに道を歩んできた」
「……」
「お前のいうように、これからは、戦の時代じゃねェ。だからよ。俺みたいな奴がいたら、あいつらも迷惑だろ?」
「馬鹿な……。お主は俺たちの仲間ではないか」
「ふッ……」
俺は、遠くに見える校舎を指差すと目を細めた。
「俺には、あの場所は眩し過ぎらあな」
「……」
「んなツラしなくてもいいだろう?俺は、強ェ奴と巡り逢えると思うと、腕が鳴って仕方ねェをだからよ」
「剣の道に殉じるか」
「まァ、そういうこった」
「……」
「んなツラしなくてもいいだろう?俺は、強ェ奴と巡り逢えると思うと、腕が鳴って仕方ねェをだからよ」
「剣の道に殉じるか」
「まァ、そういうこった」
「……」
「じゃあな。あいつらや百合ちゃんの事、頼んだぜ」
雄慶の横を通り過ぎながら、俺は軽く肩を叩いた。
それは、今まで共に闘って来た戦友への俺なりの感謝のつもりだった。
「待て、京梧」
通り過ぎようとした俺を雄慶は制した。
「止めても無駄だゼ?」
「止めるつもりなどない。お主が、人の説得に動じるとは思えぬしな」
「ふんッ」
俺は鼻を鳴らすと口先を歪めた。
「町で、同心たちから話を聞いたのだが──」
「……?」
「芝や高輪を初めに、各地に人斬りが出没しているらしい」
「人斬り?」
「そうだ、どうやら、狙われているのは志士を名乗る者たちや脱藩浪士だという話だ。芝の辺りには、薩摩藩邸などもあるからな」
「夢覚めやらぬ輩って訳か」
「それに、先日のような不可思議な僧侶もいる」
俺は、先日出会った『月照』とかいう名の謎の密教僧を思い出した。
(そういや、あの坊主……『時代を変える』とか何とかいってたな)
「下らねェ」
呟く俺に、雄慶は表情を曇らせた。
「……お主も狙われてもおかしくはない。用心するのだな」
「襲ってきたら、返り討ちにしてやるよ」
そういうと、俺は口笛を吹きながら歩き出した。
遠くで──そう、まるで、俺の門出を祝うかのように海軍の撃った大砲の音が、長く悲しげに響き渡っていた。
芝高輪に着いた頃には、日が傾きかけていた。
途中で、瓦版屋に出くわしたのが、どうやら良くなかったらしい。どこへ行くのかだのどこぞの事件がどうだのと五月蝿く付きまとってきたんで、近くの茶店に隠れて行き過ぎるのを待っていたのだ。
「まぁ明るい時分から人斬りってのもねぇだろう」
紅に染まる屋敷を見上げながら。俺は辺りを見回した。
通りはおろか、脇の小道にさえ人影はない。
(妙に静かだな……)
静寂に包まれた通りを歩きながら、俺は立ち並ぶ民家の軒先を覗き込んだ。
開かれたままの高そうな門と庭に倒れたままの竹箒が、家人の不在を表していた。
俺は、足音を立てないよう、砂利の敷き詰められた庭に足を踏み入れた。
その時──、
ふいに、庭の片隅にある離れから、押し殺した女の悲鳴が聞こえた。
俺は考えるより早く、斜里を蹴って、一気に駆け出した。
離れの壁に身を寄せると耳をそばだてる。微かな物音が、離れの中にいる何者かの存在を告げていた。
布を引き裂くような渇いた音が、一度だけ響いた。
(いきなり当たるたァ、運がいいのか悪いのか)
目を慣れさせるために瞼をきつく閉じながら、俺は、右手の刀を鞘から抜き放つと、そのまま、木の引き戸を思い切り蹴った。
へし折られた戸が、派手な音を立てて、内側に倒れ込む。
それと同時に、俺は離れの中に入り込んだ。
むせ返るような血臭が、俺の鼻腔をつく。
瞼を開くと、すぐに暗闇の中の光景が飛び込んで来た。
(こいつは……)
俺は、壁にびっしりと描かれた奇妙な文字を見て、息を呑んだ。
壁だけではない。
床にも天井にも、真っ赤な血のような色で文字が描かれている。
以前、雄慶に見せてもらった密教の書物で似たような文字を見た気がしたが、これがその文字と同じかどうかは定かではない。だが、首筋の後ろの毛がチリチリと逆立つ感覚が、俺に警鐘を鳴らしていた。
(面白ェ)
俺は、刀を持つ掌にぎゅっと力を込めた。
ゴトンッ──、
その時、三和土(たたき)を上がった奥の暗がりで物音がした。
音がした場所で、細い影が、ゆらりと立ち上がった。
薄暗がりの中でも、その風体から、その影が家人ではないことがわかる。
「どうやら、おれはよくよく坊主に縁があるらしい」
噂の人斬りか常世の鬼でも現れるかと思っていた俺は、思いも寄らぬ出現者に嘆息した。
目の前に現れたのは、ひとりの年老いた僧侶だった。
「こんな処で何をしてるか知らねェが、話を聞かせてもらおうか?」
俺は、僧侶に尋ねた。
血臭と壁に描かれた謎の朱文字。この場所で、何かがあった事もは明らかだ。先刻の女の悲鳴も気になる。
「こっちへ来い」
奥の暗がりから、夕暮れの陽が射す三和土の方へくるように俺は僧侶を促した。
「……」
無言のまま、僧侶はゆっくりとこちらに移動して来た。
出て着た僧侶を見て、俺は自分の考えが間違っていた事に気が付いた。
しわだらけの肌と曲がった背中、そして、華奢な雰囲気に、老人だと思っていたが、夕日に照らされているのは、間違う事なき、年若い男だった。
何がこの僧侶の身に降りかかったのかは知らないが、その姿は、まるで精気の吸い取られた干物のようにも見えた。
ボロボロの法衣を身に纏い、ぶつぶつと何事か念仏のような言葉を呟きながら、僧侶は三和土まで降りてきた。
げっそりと肉がそげ落ちた頬と窪んだ洞のような眼窩が、その僧侶を一層、不気味に見せている。
「てめぇ、ここで一体何を?」
僧侶の異様さに、俺はもう一度、部屋の中に描かれた朱文字に目をやった。
「道は開かれた……」
僧侶は念仏を止めると、ひと言そういった。
「何だと?」
聞き返した俺は、背後に人の気配を感じた。
「きゃァァァァァッ!!」
若い女の悲鳴に俺は振り向いた。そこには、買い出しにでも行かされていたのだろう──使用人風の女が、驚愕に目を見開き、わなわなと小刻みに体を震わせながら、こちらを指差している。
「早く、番所に知らせて来いッ!!」
俺の恫喝で、我に返った女は後退りするように、この場を離れると駆け出した。その足音を聞きながら、俺は『女というものは男が思うより、以外と気丈なものだ』などと徒然に考えていた。
俺は、現実に戻るため、頭を振った。
その首を骨のような左手が、ふいに締め付けた。
「──────ッ!!」
瞳を動かすと、いつの間に近付いていたのか、鬼のような形相で俺を睨み付けながら左手を伸ばしている僧侶の姿が映った。
万力のような力で締め付けるその手を引き離そうと、俺は僧侶の手首を握った。ぞっとするぐらい冷たい感覚が俺の掌に伝わってくる。
「てめェ、一体……」
声を搾り出すように呟くと、俺は手を思い切り引き離した。
細い鍵爪のような指が、離れ際に俺の首の皮を削っていったのがわかった。
「ゲホッゲホッ」
血が滲む首筋を押さえながら咳込む俺に、再びつかみ掛かろうとした僧侶を横にかわすと、俺は、刀を突き付けた。
「野郎、ふざけやがって……。口が動く内に答えてもらおうじゃねェか?ここで何をやっていたかを──」
その問いには答えず、僧侶は先刻と同じ台詞を口にした。
「道は開かれたァ?」
俺は、僧侶の言葉を反芻すると眉をひそめた。