セラフィックブルー>>>>>ローグギャラクシー

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830名無しさん@お腹いっぱい。
いきなりな話で何なのですが、皆様は日々を生きる上で
「幸福」と「救済」の何れを見ていますでしょうか。

別にRPGに限った話でもないのですが、巷の多く、
もとより大多数のストーリーでは、
登場人物は幸福を追い求めていると言えるでしょう。
言葉を変えれば自己実現であり、自らがその世界の中で
如何にして自己実現するかというのが焦点となります。
付け加えれば、それが好ましい形で果たされる結末を
ハッピーエンド、そうでないものをバッドエンドと
呼んだりするのでしょう。

さて、Seraphic Blueはどうかと言うと、
全てが全て幸福を求めていたという訳ではありません。
ヴェーネなどは端的な例で、彼女が事ある度に見せたのは、
幸福を追い求める事への否定や失望感、或いは拒絶そのもので、
そして代わりに追い求めたのが救済です。

それはつまり、自分がこの先を生きて
何を為すとか何を育むとかという事ではなくて、
「どうしようもない今」を「どうしたものか」という事です。
幸福が未来を見るのならば、救済は現在<いま>を見るのです。
これはヴェーネが未来を見ていなかったという物語の核心とも
合致する事でしょう。
彼女は救済を追い求めるが故に、未来を見ずに現在を見て、
果たしてあの物語の顛末が出来上がったという訳です。

実はこの救済という要素もまた、私が巷の物語に
対するアンチテーゼとして意識したものであります。
何かの宗教に染まったように幸福一辺倒で追い求めている
それらの流儀で言えば、例えばヴェーネとフリッツは
結婚して幸せな家庭を築いてハッピーエンドという所でしょうが、
これは実に白々しく反吐の出そうな紛い物に感じられるのです。
言わば幸福病とでも言うのでしょうか。
どうあっても幸福しか求めないし、また幸福を求めない者は
認めないという世間の風潮が、私には実に愚かで低俗で、
要するに気に食わんのです。
そして故に、Seraphic Blueの物語となる訳です。
幸福の未来に生きるも、救済の現在に死にゆくも、
そんなのは人の勝手であって、いちいち指図するなと、
そういう訳であります。

余談ですが、私の脳内にのみ存在する新たな物語では、
Seraphic Blueよりも更にこの救済を前面に押し出しており、
またどのようなエンディングになるかも決まっています。
以上、徒然なる乱文失礼。