信長の野望・創造 15作目

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262名無し曰く、
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

勝頼がいくら信長が戦下手だからって
ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし
武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。
鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。
まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。
しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。
義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。

遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。
長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。
織田が圧倒的兵力になったのは
包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。
それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて
織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで
山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。