信長の野望・創造 15作目

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19名無し曰く、
織田が死なせた武将達一覧

赤瀬清六、佐々隼人正、千秋四郎、山口取手介、
土方彦三郎、織田信益、岩室長門守、梶川平左衛門、山県源内、
宇野弥七、朝日孫八郎、波多野弥三、近松豊前、神戸伯耆、
神戸市介、野村越中、森可成、織田九郎信治、青地茂綱、
尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎、織田信興、
坂井政尚、浦野源八親子、氏家ト全、平手汎秀、長谷川橋介、
佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎、林新次郎、賀藤次郎左衛門、
前波吉継、織田信広、織田秀成、織田信成、織田仙丸、
織田又六郎、織田信次、織田信方、織田信直、織田久三郎、
織田清長、原田直政、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、
丹羽小四郎、万見重元、織田信家、真鍋七五三兵衛、沼野伊賀、
沼野伝内、野口、小畑、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、
矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、
村田吉五、森乱丸、森力丸、森坊丸、小河愛平、
高橋虎松、金森義入、菅屋角蔵、魚住勝七、武田喜太郎、
大塚又一郎、狩野叉九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、
伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山口弥太郎、飯河宮松、
祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、
湯浅甚介、小倉松寿、湯浅甚助、小倉松寿、津田又十郎、
津田源三郎、津田勘七、津田九郎二郎、津田小藤次、菅屋九右衛門、
菅屋勝次郎、猪子兵介、村井春長軒、村井清次、村井作右衛門、
服部小藤太、永井新太郎、野々村三十郎、篠川兵庫頭、下石彦右衛門、
下方弥三郎、春日源八郎、団平八、桜木伝七、寺田善右衛門、
塙伝三郎、種村彦次郎、毛利新介、毛利岩、斎藤新五、
坂井越中、赤座七郎右衛門、桑原助六、桑原九蔵、逆川甚五郎、
山口小弁、河野善四郎、村瀬虎、佐々清蔵、福富平左衛門、
小沢六郎三郎、土方次郎兵衛、石田孫左衛門、宮田彦次郎、浅井清蔵、
高橋藤、小河源四郎、神戸二郎作、大脇喜八、犬飼孫三、
石黒彦二郎、越智小十郎、平野新左衛門、平野勘右衛門、水野宗介、
井上又蔵、松野平介、飯尾毛介、賀藤辰、山口半四郎、
竹中彦八郎、河崎与介、村井新右衛門、服部六兵衛、水野九蔵
20名無し曰く、:2013/08/13(火) 22:58:43.56 ID:8uQIXdD9
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。

信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長

信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。

家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。

武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田

信長は山県、馬場、家康より弱い。

信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。

謙信は信玄より強い。

謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
21名無し曰く、:2013/08/13(火) 22:59:51.30 ID:8uQIXdD9
武田戦では滝川平手佐久間水野はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる

しかも天正8年に一番の功臣佐久間信盛や安藤やら水野を粛清しだし
家臣達に反感を買い、光秀に殺されるヘタレぶりw
22名無し曰く、:2013/08/13(火) 23:00:34.43 ID:8uQIXdD9
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない

秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
23名無し曰く、:2013/08/13(火) 23:01:27.54 ID:8uQIXdD9
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし

甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ


岐阜城って土岐や竹中や信雄や福島や斉藤利尭やらに馬鹿みたいに落とされまくってるのに苦戦したの信長だけなのに
なぜか城が堅かったとか馬鹿な捏造されてるんだよな
単に寄せての大将が雑魚だっただけでしょ