信長の野望・創造 15作目

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163名無し曰く、
織田が甲江同盟詐欺してたから武田は軍備解除してたんだろ。そこに織田が騙まし討ち的に奇襲かけて徳川北条の大軍が
一挙になだれ込んできて武田は防備体制もなく、離反の連鎖になった滅んだだけで実力で落としたといえるの高遠だけ(この戦闘ですら苦戦)
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ
返還したこともあり景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、 織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから使者の往来が天正9年に入っても可能だった。つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやってまたしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)

ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい
164名無し曰く、:2013/08/14(水) 09:14:34.09 ID:mZyfsp52
>>強国に小判鮫していたらいつの間にか大国になっていて
大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝したのが最強家康
>>義元死後の今川 信長死後の織田 秀吉死後の豊臣 彼らの生前は臣従せざるを得ないくせに、
今川は元々松平が小国であり織田は独立後大敵今川武田と争ってる間に弱体化・分裂・内訌の雑魚国力の斉藤・北畠六角三好など雑魚を混乱に付け込んで
火事場泥棒して焼け太りになった織田家と国力差が開き過ぎてただけだしそもそも臣従なんてしてない
豊臣に関しては織田領を光秀が信長を殺したすきをついて棚ボタ的に火事場ドロした秀吉と、秀吉の敵対勢力の敵勢力十河河野上杉佐竹宇都宮勇気葦名大友龍造寺木曽
小笠原真田石川水野毛利宇喜多信雄など大勢がたまたま味方したから規格外の国力差がついたのに、それでも秀吉135000との対決で1万人殺す大勝利収めたが、
秀吉の本願寺顕如や織田信雄使った必至の懇願と母と妹を差し出して「ワシに従ってくれ〜」というありえない土下座醜態に哀れんで仕方なく頭下げてやっただけ。
>>死んだ途端に昨日までの味方に牙を剥くあざとさ。やり口が汚いわ。
生きてる間からキバむきまくってるだろアホwむしろ豊臣も織田も今川も小国松平使って必死に利用して戦有利に進めようとしてたし家康のおかげでかなり助けられてる
(尾張侵攻戦、志賀の陣、姉川の戦い、長篠、北条征伐など)
>>運の良さと、自分を実力以上に見せるペテンの才能は認めるよw
小国の中の数郡の領主のどこが運いいんだアホ
>>乗っ取り詐欺で成り上がった徳川のメッキが剥がれたのが幕末でしょ。
意味不明。なんで300年も続いたのにめっきなんだよタコ
>>関が原直後だって、島津と毛利の本拠に徳川が攻めたら勝てたかね?俺はそう思わない。
島津なんて6000もいる軍が本多や井伊数百に散々蹴散らされて数十期まで減らされて副将や重臣ことごとく戦死してるし
それでもって関が原の島津は寡兵だったなどとデタラメをデッチ上げてるし毛利もあれだけ規格外の兵力がありながら
結局兵力分散させまくり何もできないどころか家康に大敗して大厳封くらってんじゃん
>>島津は全く減封できずに手討ち
厳封する意思がなかっただけだろ。九州勢の黒田や加藤らが島津領めがけて南下していくところを家康が止めてくれたおかげで助かっただけだし
>>毛利は嘘八百並べて大阪城から退去させた後で減封 さすが狸。
根拠は?そもそも毛利なんて大敗したから後は関係ない。毛利が退去しなかったら関が原の戦いに勝利後膨れ上がった東軍勢で大包囲しいて大勝利になるだけ。
毛利軍なんてあれだけの規格外の兵力がありながら伊勢湾、伊勢、四国などどうでもいい方面に兵分散させまくりしかも四国での火事場泥棒にも失敗して敗戦してるほど雑魚でしかない
>> それでも寄せ集めの豊臣軍に勝てないから策略で堀を埋めてのだまし討ち
家康はそもそも和平の際約定守ろうとかなり献身的だったのだが秀忠らが強行的に無理矢理堀をうめるなどしただけ。
165名無し曰く、:2013/08/14(水) 09:15:23.30 ID:mZyfsp52
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝


信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡


どうみても家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長


こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ。その最強家康をガチンコで破り一緒に織田の援軍佐久間平手滝川水野らが率いる2万も大破してるし
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし

信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
166名無し曰く、:2013/08/14(水) 09:19:53.41 ID:HpCy+gHr
○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
167名無し曰く、:2013/08/14(水) 09:21:11.70 ID:HpCy+gHr
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る  
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む 
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する 
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す

史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある

信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな

以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣