信長の野望・創造 15作目

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159名無し曰く、
渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
そんで大内と尼子の間をくるくると渡り歩いているのは

安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実・・・
1541年大内から佐東や安南に合計1000貫の所領をもらい
翌年には武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍をもらう。
(大内は備後北半七郡直接支配は元就に委ねている)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城(武田の主城である佐東銀山城)を手に入れ、
陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。
また9月には義隆側の孤立無援の西条槌山城も手に入れる。
(大内が安芸東部支配の牙城にしていた西条鏡山城を廃して新たに築城した)
周防16・長門13
備後18・安芸19
だもんな。しかも陶は周防からしか動員できないし。
そもそも中国地方なんて石高の低いしょぼい戦しかないだろ。
鴨川氏も港湾収入なんて、それまでの徴収者が据え置かれてるから
港湾地域を支配に加えても毛利の収入はそれほど増えなかったとしてるし、
瀬戸内海での港湾からの上がりも期待できなかっただろうし。
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし
尾張三河は
頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね
頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか
岡崎城に隣接してる資料館では
三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。
そりゃ信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、
ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

だいたい有力重臣国人たちにより父が失脚してる大名に信長の父は該当しないし…
父が殺された大友宗麟
父が追放された武田信玄
父が強制隠居に追込まれた上杉謙信
父を打倒せざるを得なかった斉藤義龍
父を竹生島に幽閉したがのち融和した浅井長政←失敗例
160名無し曰く、:2013/08/14(水) 09:10:20.84 ID:mZyfsp52
>>桶狭間合戦時における尾張の下半分はほぼ今川に分捕られていたと見ていい。
はいはいデタラメの連呼乙

鳴海が今川方になったのは弘治元年(1555年)2/5付書状で証明されてる。
しかし、それ以外は取られてない。半分が今川とかアホだろw
その書状の中で信長が鳴海に同心したら領地没収の話を出してる。
そもそも弘治元年から2年に渡り三河全域で反今川勢力が蜂起して
今川勢と各地で戦ってたのは岡崎市史で指摘されてて、
今川にはこれ以後、余裕がまったくない。
信秀が死んだのは天文21年3月(1552年)で鳴海が今川へ寝返った時期から
すでに3年も経過してるから、信長が相続した時点ではちゃんと引き継いでいるし。

>>織田信秀の死に方が悪すぎるわな 後継者すら明示せずに死ぬとか乱世では自殺行為。

天文18年11/5付け織田与十郎書状には備後守病中故と書かれており
神宮文庫の日記断片にも天文17〜18年頃に信秀を入道と呼び、信長を若殿と書いており
信秀が当主を退いて後見役になっていたとされる。
同じ時期に信長と濃姫の婚儀もあり
それと同時に天文18年11月に藤原信長として熱田村に書状を出していて
これは信長の初見文書であり、明らかに信秀は病を機に出家し後見役となり
信長を後継当主として擁立した流れとされている。
さらに天文21年10/21日には桃岩(信秀の法名)の判形の旨に任せて安堵という書状を
信長は大叔父の玄蕃允秀敏へ知行宛して当主権を行使している。
天文22年閏正月13日に信秀が外交を委任していた平手政秀が信長に悲観して自殺するや
道三は信長の大叔父玄蕃允秀敏に信長の悪行を心配している書状を出してる(浅井家文書)
そして同じく後見役とされていた林も信長を見放す。
しかし道三は娘を人質にされてるためか、信長を見放さず、
水野の小川城に対抗して岡崎衆が村木に砦を築くや天文23年正月に安藤伊賀守の軍勢を派遣し
小川城で水野信元と会談後に砦を落として帰っている。
明らかに信長がどうしようもない馬鹿で尾張が分裂していっただけで、
信秀は万全の体制で信長へ引き継がせてる。義龍によって尾張反語句を奪われたのは信長の糞アスペ人格が原因。

だいたい信長伝説(笑)が一人歩きしててどうしようもない。
たとえば岐阜の命名にまで天下統一の野心が伺えるとか
平気で書いちゃうのがエセ歴史家だからね。
そもそも快川やその師の仁岫らが岐阜を仏教の力で守護するという意味で
護阜という名称をずっと使ってたのも知らんで
信長が名称を改めたって主張する信長公記のデタラメを妄信してんだから。
はっきり言ってこれ美濃で力があった臨済宗への信長の媚び諂いでしょ。

義元は4/12付け書状の中で自分の出陣を夏と書いていて
自分の出陣までに尾張との境に砦を作るように命じていて
実は桶狭間の戦いがあったとされる5/19にはまだ義元は出陣してないんだよね。
だから義元は桶狭間で死んだなんて妄想は成立しない。
んで、6/8付けで氏真が岡部元信へ水野信元の刈谷城(天文19年12月に信秀が義元から取り戻していた)
を攻撃し城主の水野信近を討ち取ったことに対して感状を出しているので
この期間に義元は病死なり暗殺なりで死んでると見るのが妥当。
161名無し曰く、:2013/08/14(水) 09:12:04.66 ID:mZyfsp52
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
初期条件って別に自国の国力だけの事じゃなく自国の周辺国の内訌・分裂・弱体化とか
自国に比べて雑魚国力とかも入るでしょ
その点毛利は大内尼子内紛分裂
織田は斉藤幼君で混乱・分裂・抗戦意欲なしで自落ばかり北畠は内訌で崩壊
六角は対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化三好は統制が取れずバラバラ
東では松平独立、上洛時においては次々織田方に畿内で味方が勝手に増えて集まってくるし
守護の赤松・山名・松永・荒木・毛利残党の山中らも味方と恵まれまくってるな
斉藤攻略でも浅井や和田ら甲賀衆や江州様が味方で大いに活躍しまくって棚ボタ的に斉藤攻略→上洛で
チート国力を得たわけだし

岩村一城に半年かかって騙まし討ちかけてやっと落としただけなのに武田が滅亡寸前とか相当馬鹿だな
信長は謙信にあてて信濃に討ち入る事肝要とか散々要請して自分とで挟撃して潰そうともくろんでたが
それが叶わず甲江和与をちらつかせて織田は武田の講和交渉に応じて交渉を続けていて
交渉の好転もあり信長の息子の織田勝長が11月に武田から織田へ人質返還されている。
佐竹なども同盟成立と読み、(天正9年3/18の時点ですら景勝が織田と同盟したのを報せない武田を非難する誤解までしてる)
そのため交渉進展を経て天正10年1/6に勝頼は三河出陣も延期してる。
2/4に信長は閏月の有無について濃尾の暦師賀茂と土御門に問答させて朝廷を追い詰めてるだけだし
1/25付書状で伊勢神宮の遷宮費用の話が持ち上がり、まったく武田攻めをする気配すらない。
唐突に2/6付けで木曽が信長に援軍懇願しており木曽の内通確定がほぼ突発的だったのがわかる。
そして予定に無かった武田攻め動員が開始され準備が整った

天正10年1月6日付けの勝頼書状には 軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから 3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。 そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけ。