信長の野望・創造 15作目

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149名無し曰く、
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢 1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
信長の周辺は弱い大名ばかりだが 信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。
仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
150名無し曰く、:2013/08/14(水) 08:50:37.26 ID:ERhtRhz8
武田信重(1386〜1450)なんて応仁の乱前の武田家当主でしょ
随分歴史の深い大名家なんだねー織田も北条も長尾も毛利も存在しないよ
しかも武田守護家復帰を後押ししたというのは、室町幕府の意向というじゃないか
いやー幕府に後押しされるほど手厚い保護を受けて甲斐復帰、名家中の名家ですなあ
名家とか旧幕府系勢力とか守護大名家が次々新興勢力に滅ぼされたり領土広げられてる時代に
歴史が深いとか名家とか何のアドバンテージにもならんだろ
甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。
双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。
この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。
信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏)
実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。
さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら
国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。
家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し
混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。
東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し
おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。
こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから
甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。

信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ

塩山向嶽禅庵小年代記

信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評
「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」
武田研究で有名な上野晴朗氏
「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、
北条と今川の友好関係が破れた。
このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、
対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」

信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。
これは道三や信長とも共通した性格であろう。
一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。

>>148
テンプレを元に戻して、織田厨が一日それ(武田貶し・織田age自粛)を徹底できたら考えてやるよ。
151名無し曰く、:2013/08/14(水) 08:53:11.87 ID:mZyfsp52
信虎は在京守護として、
ほとんど京にいて公家たちと交際したり旅行行ったりで甲斐の財を湯水のように使うわ、
甲斐にたまにしか帰らないから、甲斐国人は統制されず、やりたい放題。
越後では守護の上杉房定が在京守護を止めて越後支配に乗り出し、検地をやって守護代や国人の横領を取り締まったりしているが、
信虎にはそんな意識もなく、たまに甲斐に帰国するや戦マニアの顔を出して戦乱三昧にして甲斐を荒廃させた。

権臣重臣たちによる晴信を御輿に担いでの悪人信虎の追放(妙法寺記)
此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、
カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。

勝山記を読めばいかに甲斐が貧しく連年の災害に苦しんでいたかわかるんだが。
それを信玄が領内開発と法治による信賞必罰で
見違えるような国にしたんだよな。

織田厨の捏造歪曲の実例
信玄の外征で破綻したので「世の中一向悪くなる」と書いてあるよなw
はい、これ自然災害が多発していた晴信初期の国情を書いている部分であり
完全に織田厨の歪曲で、その後の晴信の内政治水の努力により、毎年災害多発の甲斐から
災害記録がなくなってしまうのが史実です。
そして甲斐では妙法寺記に「世間が富貴になった、先代にはなかったことだ」と賞賛され
数百年にわたって神として尊崇された 長野在住の学者も身近で信玄を悪く言う人がいないことに驚いているくらい
本当にまあ、そうやって織田の所業を武田におしつけて印象操作すれば騙せると思う、
姑息なゴミニートの印象操作はいい加減にしとけやゴミ
武田には徳役という税制があった。
これは有徳銭とも呼ばれ、富裕層にだけ税を追加で取るもの。
これを当時は悪政と言っていたが、
これらが河川改修などの災害防止にあてられていた。
逆に北条などは富裕層である高利貸しを優遇して
借金苦で家族を質に入れて流されてるケースが多発してる。