信長の野望・創造 14作目

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467名無し曰く、
鎌倉期の西遷御家人などを見ても解るように、武士はむしろ流動性が高いし、武士自身、遠くに移ることは
むしろ当然だと考えていた。例えば武田信玄の家臣に、遠隔地の軍役を申し付けられたため、その地域に所領を移してほしい、
といった信玄宛の書状なども残っている。

また百姓も、領主の政治に不満があれば村ごと集団で逃亡し、他の戦国大名などと交渉し、条件が良ければそちらに集団移住するなど
普通に行われていた。

戦国期は武士も百姓もむしろ流動性が高く、近世の統一性権の課題はむしろ、この社会の安定性を損なう
流動性の高さを止めることが課題だった。

九州の大友や中国の毛利や長尾や伊東や芦名らがもともと鎌倉時代はじまるころは、
どこが先祖伝来の土地出身だったかというとほとんど相模や伊豆出身。
宇都宮家なんて九州や四国に分家がある7ほど繁栄してた。

武田のサラリーマン化の例でいうと
遠江高天神城を武田家直轄領にするため 小笠原信興衆に甲府で屋敷地を与えた上で、
現在の富士市にある駿河下方に1万貫で移封。 高天神城将に岡部元信が選ばれ、
その寄子や同心衆へ高天神の周囲を中心に駿河や遠江に知行を武田家より与える。