信長の野望・創造 13作目

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888名無し曰く、
あと義弘が妻子がいる加久藤城をワザと兵を少なくして
油断させて伊東に攻めさせたとか、相良をウソ情報で撤退させたとかw
おまえ相良と婚姻関係だった大隈の菱刈氏の大口城が陥落した時点で加久藤城は背後に大口の新納が配置れてんだから安泰だろ。
油断させておびき出したとか完全に捏造デタラメw
だいたい大口陥落で菱刈氏衰退に拍車がかかったので
東郷や渋谷も島津側に走っト周辺が島津一色に塗られた状況・・・そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw
伊東に飫肥を攻め取られた島津は日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞw
しかし島津弱いね。
相良に負けっぱなしだもんな。
薩摩からの入口に過ぎない水俣城攻防戦でも大敗しまくりで
最後は家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで和睦に追い込んだにすぎんからな。
この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
もし出してたらまた水俣攻略失敗してたなw
島津側公式記録の肥後合戦陣立日記・肥後水俣陣立記や薩藩奮記雑録

天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、かる石之尾に家久・征久熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。

木崎原のころには伊東一族って家臣から見限られてたんですよね?
義祐当人も放蕩、奢侈、諫言する家臣を遠ざける等主君としてどうだったんでしょうか。
米良氏は島津義弘の攻撃を撃退するなど奮戦してたのに所領の一部を伊東祐松に奪われたり。
落合氏も嫡男をこの祐松に殺されてるんですよね。
落合兼置も木崎原の殿軍を努めて討死してるのに相変わらず栄華な生活を送っていたのでしょうか?
米良落合どちらも島津方に寝返ってますよね。
そういう事が積もり積もって人心を失って表面だけしか従ってなかったんだと思うよ。
だから劣勢となるともはや篭城できる状態ではなかったと…。
命を賭けて頑張ってるのに報いるどころかそんなことやってちゃね。
小林城の攻防戦で米良重方・矩重兄弟は攻撃方の島津軍を撃退してますね。
義弘は討死寸前で重傷を負ったとか書いてある。
義久も義弘も来ている本格的な侵攻だったが失敗して撤退した。
攻勢に出た木崎原の戦いで重方が戦死。
跡を継いだ弟の矩重は所領一部没収、謀反嫌疑などで不満を募らせ島津方に
寝返る。伊東義祐死後、祐兵が旧領の一部を回復して復帰すると島津家を去り、
祐兵に謝罪して許され再び家臣になる…だって。
家臣団の府内集住に成功した反面で二階崩れの変が起きた大友や六角氏の挫折や武田信虎追放劇のように
強権発動で豪族連中を屈服させて中央集権化を目指すのに失敗したんだな。
結局、そういうことをせずに甘やかしたり、欲で釣って自陣営に引き込んでる大名が
成功して版図拡大してんだよな。
島津のようにグダグダなまま封権制度を引きずるのはダメダメ例
889名無し曰く、:2013/08/07(水) 21:52:35.29 ID:urmrSYnP
筑前での立花宗茂の話の時も毛利の援軍は豊前で大虐殺して回って脅してたが、
秋月から養子に入った高橋元種の香春岳城を攻略した時点で
戦力ボロボロでそれ以上の進軍を断念し越冬準備を開始してるのも知らずに語ってるバカぶりだったが・・・
6カ国守護なんて名を持てば実質的にも支配が確立できていたと思ってるなんて超絶バカwww
大友側のまったく微動だにしなかった数々の城を何度も攻めては敗走。
そしてそれら数々の拠点城を策源地とした後方遮断と調略によって、
島津は誰が見ても圧倒的不利で、事態打開の方策もない大消耗戦で
大幅ば戦力低下状態に追い込まれ、豊後で島津に内応した国人たちまでが
大友の調略に応じて見放されてしまい、ついには完璧な孤立に追い詰められ
府内から逃げるほかなくなってしまい
義弘が攻略できなかった岡城を中心にした肥後口は完全に封鎖されてしまう。
島津が相良を殿にさせて日向口から逃避行する際では、
家久がまったく攻略できずに放置した無傷の栂牟礼城を中心とした支城ネットワークの中を
通過しなきゃならず、佐伯領主の佐伯惟定を中心に満を持してこの時を待ち構えていた
捕捉殲滅軍の前に、最後は日向豊後国境の梓峠でほぼ壊滅的被害を受け、
義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品まで手に入れ、のちに秀吉に見せている。
この大友による自力での島津敗走への報告を得て、やっと門司に集結を開始し始めていた秀吉軍が
タイムスケジュールを大幅に前倒しして、大急ぎで追撃準備を開始して、島津がとっくに逃げ去った後の豊後に入国し
義統に道案内をしてもらい、日向へ入国したわけだ。
これらの自力島津撃破の大功を評価した秀吉は、立花や佐伯を激賞してるんだよアホ島津厨クンwww
島津最強じゃなきゃ嫌だとか泣いて必死でマンセーして超無知をさらけ出したなwww

そもそも秀吉は豊前での毛利のボロクソぶりに、毛利じゃ秋月攻略すら無理とみて
専守防衛を命じていたから充分な準備と集結を待ってからの南下を考えており
即、豊後救援なんて考えていなかった。
すると島津が敗走を重ね、ついに豊後から逃走した。
蒲生らも準備が追いつかずに大追撃をしてたので後続が追いつかなかったほど。
肥前で略奪しまくっていた島津は補給も受けられず豊後でも強盗のような集団に成り下がっていた。
家久の1万の軍勢は進入から2ヶ月を経た時点で後方遮断されて必死に城奪回の強攻めなどの愚を繰り返し
すでに半数以上が討ち死になどで戦力外になっていたので軍隊として崩壊していた。