信長の野望・創造 13作目

このエントリーをはてなブックマークに追加
683名無し曰く、
>>679
そういうのは大軍側の指揮官が馬鹿なだけで
そういう地勢的条件を無視して無謀に挑んでくる馬鹿が総大将じゃないとそういうのはそうそう生かせないよ
大体大軍側の方が兵力を分散させて陽動かけたりできるから布陣においてもかなり有利だし
ある堅固な陣地で相手が待ち構えていても側面方向とか別方面から攻撃する構えみせたり、陣城を相手の眼前に築いたりすれば
相手からすればかなりプレッシャーになるし、それこそ敵の陣地を包囲する形で陣城で埋め尽くせば基本的に相手は立ち枯れるしかないからいずれ相手は決戦に及ぶしかない
大軍側は、勝てば領土得られる戦を、自分の好きなタイミングで自分が好きな時・状況で挑む事ができる点でかなり有利


まず大前提として侵攻側・大軍側は自分がこの戦場で戦うのは不利だと判断したら攻め込まなきゃいいだけ。持久戦に切り替えるなり
他のルートで侵攻するなりすればいいだけで、敵が打って出てきたらそれこそ迎撃すればいいだけだし 大軍側は戦争の主導権握ってる
寡兵側、防衛側は戦争回避したら領土失うか死ぬだけだが大軍側は自分が好きなタイミングで自分が好きなルートで、また十分に用意して攻め込む事ができる点でも
圧倒的に有利。また勝っても領土が広がらない防衛側は離散や逃散が出やすく士気が下がりやすいが
勝てば領土、恩賞が約束される大軍側はそれはない。

ハンニバルのポエニ戦争とかハンニバルが寡兵側で侵攻して勝ったりしてるし
武田の織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし
684名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:21:34.05 ID:zhJ1O+wI
>>681
はいはいデタラメ乙
>>尾張の1/4
これは織田信定から信秀が継いだ領地だ。

看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし
尾張三河は頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。地力がある土地なんだよな。
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか
岡崎城に隣接してる資料館では三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。

そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、
ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。

だいたい有力重臣国人たちにより父が失脚してる大名に信長の父は該当しないし…
父が殺された大友宗麟 父が追放された武田信玄 父が強制隠居に追込まれた上杉謙信 父を打倒せざるを得なかった斉藤義龍
父を竹生島に幽閉したがのち融和した浅井長政←失敗例
685名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:22:39.69 ID:EK1H3zfK
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
686名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:24:02.50 ID:urmrSYnP
焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
687名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:27:28.93 ID:urmrSYnP
三好長慶が在世中の時にすでに
朝廷は超金満織田家を頼り、
三好に内密で使者を送って上洛を促すくらい
織田家は朝廷に覚えめでたかったからなー。
朝臣の立入宗継が三好や松永はほしいままに振舞ってると激怒し、
万里小路惟房も三好や松永は大したことでもないのに大騒ぎして嫌がらせするが、
君の御為に私たちは何度でも憂き目に合うのも覚悟のうちだと言って、
三好らに内緒で永禄5年11/9付けで、
女房奉書を出して宗継に信長の清州へ伝えて、
皇太子元服費用と禁裏修理と御料所回復の要求をして上洛支援している。
どんだけたんまり財力あんだよ織田家。
688名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:28:06.24 ID:zhJ1O+wI
>>687
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
さらに中国や朝鮮と貿易して本拠地の山口が今京都と呼ばれたほど栄えていた大内をも上回り
畿内や摂津・播磨や阿波・讃岐・大阪湾貿易を支配していた三好長慶よりも裕福だったのが尾張国です。
689名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:31:49.02 ID:NJpxgg8b
>>684
ヒュー!千倍かよ!さすが尾張は米どころだものなあw
なら土岐や斯波はそのさらに千倍かな?

結果から見ても、毛利は地方豪族だし、織田は守護の家来の分家だし、松平は今川にやられまくりだし、どこをどう見たって数の大小だけで天下が決まってないのは明らかなのにね
それまで治めていた守護大名がパッと出の戦国大名に打ち負かされていったって中学校でも習うというのに
690名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:32:14.07 ID:wvpMMqVj
信長は尾張や三河の水野分や身のの大垣城分もあるので初期段階で75万石
しかしアホ無能だった信長を支えてきた後見役の平手や林が呆れ果ててしまうほどで
せっかく信秀が信長に残したものがどんどん失われていく。
特に後見役道三が信長保護に全力を尽くしたために義龍に打倒されるや
尾張は崩壊を見せ、義龍は信長の弟へ取次役を通さず直接書状を出すなど
離反策を推し進め、義龍が当主だった実質4年の間に信長は義龍によって
尾張の半分を奪われてしまう。しかし義龍が急死し無能幼君の竜興が斉藤を継いだために信長は滅亡せずに済んだ。
織田厨の無知さは義龍によって尾張半国が奪われたことを
知らずに信秀が失っていたと思い込んでいて
しかも指摘されても認めず、信秀は無能ニダ!信長天才ニダとキモイ発言を繰り返していること。
伊達厨が父を不当に貶していたり、毛利厨が無知すぎて毛利は小国人だったのに元就天才とか言ってるのと同じアホ
691名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:33:15.40 ID:wvpMMqVj
渡邊世祐氏によれば1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上るとしていた。
毛利家文書151・252号によれば1475年備後国伊多岐・重永・山中など世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。
つまり毛利の3000貫しかなかったってのはそもそも大ウソなんだよw
そんで大内と尼子の間をくるくると渡り歩いているのは

安芸可部七百貫・温科三百貫・深川上下三百貫・玖村七十貫等の地を
大内から加増してもらった大恩を忘れ大内を裏切り元就が晴久と義兄弟にまでなっている事実・・・
1541年大内から佐東や安南に合計1000貫の所領をもらい
翌年には武田の一族判氏の遺領である判の地も貰い武田の佐東川川口の川内衆水軍をもらう。
(大内は備後北半七郡直接支配は元就に委ねている)
陶の謀反に同調した元就は陶が厳島接取した同日8/20金山城(武田の主城である佐東銀山城)を手に入れ、
陶から己斐河以東の左東郡を与える約束をしてもらっている。
また9月には義隆側の孤立無援の西条槌山城も手に入れる。
(大内が安芸東部支配の牙城にしていた西条鏡山城を廃して新たに築城した)
周防16・長門13
備後18・安芸19
だもんな。しかも陶は周防からしか動員できないし。
そもそも中国地方なんて石高の低いしょぼい戦しかないだろ。
鴨川氏も港湾収入なんて、それまでの徴収者が据え置かれてるから
港湾地域を支配に加えても毛利の収入はそれほど増えなかったとしてるし、
瀬戸内海での港湾からの上がりも期待できなかっただろうし。
692名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:34:49.73 ID:wvpMMqVj
毛利ごときに負ける大内なんて雑魚でしかないじゃんよw
大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!
693名無し曰く、:2013/08/07(水) 00:36:10.28 ID:EK1H3zfK
実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
守護や守護代が超恵まれてたなんてお前単純すぎてアホが突き抜けてるなw
毛利は一揆の盟主の家柄であり安芸や備後に所領を持つ最有力国人じゃねぇか。
一揆は大内ら上部権力に対して抗弁するために組織されたものであり
大内といえどもその集団意向を無視できなかった。
毛利が三千貫しか領地が無くて貧弱だなんて捏造もはなはだしいわ。
それに大内を事実上滅ぼしたのは陶だし、その陶の味方をして大内を裏切ったのが毛利。
その陶が石見で苦戦してんのを見て奇襲かけて裏切ったのが毛利だろ。
厳島では完全に村上水軍への他力本願で実際には毛利は何もやってないし
陶を予定戦場の厳島へ元就が誘導したってのも捏造。
尼子晴久には連戦連敗してるのが元就だし、その晴久死去後に
将軍家から毛利と尼子の和睦の話が出た際に
石見銀山を含む石見の毛利への譲渡が尼子から持ち出され和平が結ばれたのに
石見銀山を受け取った半年後に、さっそく和平を破棄して尼子へ奇襲かけて
銀山の軍資金をばら撒いて内応させまくりして尼子を追い詰めただけ。
本城常光はのちに暗殺して元就所有にしちゃってるしな。
のちに輝元が銀山資金を使おうとした時に元春が
「銀山の収入は軍事目的でしか使っちゃならんって死んだ祖父が言っただろうが」
って激怒してるくらい銀山収入は軍事的に優位になるシロモノ。
異常なまでに卑怯な意味では元就はたしかに天才だ。
山室氏も鴨川氏も元就が歴史の捏造してるのを指摘してるしな