信長の野望・創造 12作目

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8名無し曰く、
武田上杉が強いのは史実で織田や徳川を蹴散らしまくったからでしょ

○織田対上杉  謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後…  御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田

武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される


以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
9名無し曰く、:2013/07/31(水) 07:42:32.58 ID:ZBVjJ9He
上杉謙信は1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝したので柴田勝家の4倍以上の統率値が妥当
柴田が90なら謙信は360くらい。

長家家譜(織田側)

そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、


信長不在で4万人を動員している。その後、秀吉の離脱、退却などいろいろな説があるが、
おそらく隠蔽したい真実があるのだろう。

長家家譜によると
長連龍は進軍を望んだが、秀吉には真実を打ち明け、秀吉が撤退していることになっている
ここで謙信は先に松任(石川県松任市)まで南下している
更に柴田勝家は水島まで進軍している(石川県白山市水島町)
手取川を渡り謙信の陣まで約1kmまで進み、数的優勢の状況で、
撤退を判断するというのは軍事的にありえないのでは無いだろう。

戦後、柴田だけでは北陸防衛が不可能になったために
織田軍最大兵力の七ヶ国の与力を信長から与えられていて
畿内軍として石山本願寺攻囲の指揮官をやっていた
織田家No2の佐久間信盛まで北陸防衛に派遣されてる。
しかも毛利の攻勢に謙信の死が確定が事実なら信長自身が毛利攻めに行くと書いていて
信長自身も謙信への備えで動けなかった。