信長の野望・創造 12作目

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706名無し曰く、
その他各地の攻防
木付城(江戸時代になり杵築)の木付鎮直は忠元を追撃し大いに破ったため勝山城と呼ばれるようになった。
逆竹城(山の城)朽網鑑康が病没する中で息子の鎮則は島津の数度の攻撃を撃破。
久保泊城では四浦の武士と呼ばれた鳩、加嶋、加島、紀らに島津は撃退される。
松牟礼城をみただけでビヒって攻めずに敗走した島津。
吉田一祐は平原坂にて島津を撃破し月山の太刀を宗麟から恩賞としてもらう。
柴田宮千代は岩瀬砦に籠城し島津兵98を討ち取り暴れまわった挙げ句に落城。
捕らえられて島津軍に引き出されるが脇差しで敵将を刺した為殺されるが、妹が兄を討った者を刺し、妹も殺される。
菅迫城の朝倉一玄は留守の火縄の計で空城の駄原城を炎上させ、反乱や失火と思って襲いかかって入城してきた島津軍を志賀らとともに包囲し壊滅させる。
帆足鑑直の妻の鬼御前は空城を自らの侍女に鎧を着せて誤魔化していたが、角牟礼城で籠城していた森鎮生に嫁いだ娘に
「昼も夜も油断せぬように。合戦難儀でも先走って自害せず、城を枕に討ち死にしなさい。未練な働きをするなら七回生まれ変わっても勘当です」と書き送った。
このように大友側は各拠点を固守して島津軍の戦力を暫時減少させつつ、撤退焦土戦略で島津の攻勢限界点まで持久策と後方遮断を行う。
島津は低脳なので力攻めと条件反射しかしないからどんどん島津兵力は低下する。
釣り野伏しかやらないので大友側は夜襲をメインに行う。

鶴崎城の故吉岡長増は豊後三老の長老にして毛利軍壊滅に功績をあげた謀略の献策立案者。
大内逆上陸作戦において村上武吉を買収して成功に導いた智者。
その名を恥ずかしめず島津を撃退した妙林尼は素晴らしい。
またその際に大友水軍を率いて大内輝弘を上陸させ、毛利の補給路を遮断した若林鎮興の功績から、宗麟が水軍の重要性を痛感し、
若林に税を免除し水軍の育成を命じ、のち田原親貫の反乱では国東半島を海上封鎖した際に支援にきた毛利水軍を大破し大友水軍を大きく成長させ、
この島津侵攻の際に臼杵や丹生島の征海権を握り島津水軍を撃退したという。
佐伯惟定は日向豊後国境の梓峠で義弘を大破した際に義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品に堂々と凱旋し、のちに佐伯肩衝と呼ばれる。のち藤堂高虎配下となる。

※訂正
鶴ヶ城→鶴賀城
権現獄城→権現岳城
707名無し曰く、:2013/08/02(金) 21:53:20.73 ID:fnE7Ns2A
大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利隆元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘が秀包をキリシタンにした。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月、高橋救援に毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させる。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。
筑前博多は大内、少弐の争奪争い以来の最重要拠点。ここを巡り毛利と大友の攻防が始まる。
永禄11年7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。
前回の戦いのダメージから回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り大友に降伏。
秋月に続き、城井、長野、千手、麻生、宗像らも大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。
永禄12年2月、大友全軍をあげて龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し長野氏の三岳城を落城させる(毛利の味方なのにキチガイ毛利に濡れ衣を着せられ血祭りにされた)
佐賀包囲で隆信はもはや風前の灯火だったが、毛利の侵攻を聞き、隆信と和議を結び大友全軍は博多へ急行。
宝満城の高橋と合流に失敗した毛利が立花城攻め開始。
食糧が尽きた立花城は宗麟の命令で開城。
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。
708名無し曰く、:2013/08/02(金) 21:54:18.83 ID:fnE7Ns2A
☆慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。