信長の野望・創造 12作目

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701名無し曰く、
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。

南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
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702名無し曰く、:2013/08/02(金) 21:49:43.73 ID:fnE7Ns2A
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は40以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。

他にもいろいろ載ってますので興味ある方は歴史読本8月号のバックナンバーを買おう!
703名無し曰く、:2013/08/02(金) 21:50:25.53 ID:fnE7Ns2A
大内再興軍を輸送した若林鎮興はこのあとも大友水軍を育てて、国東半島封鎖戦で、ついに毛利水軍を撃破してますよ。
さらに島津侵攻軍には臼杵城防衛に活躍し、朝鮮役にも出陣。

瀬戸内海の制海権を握ってた分、毛利がチートだったわりにボロボロに負けまくったアホ元就。
しかも制海権の痛感した大友側は努力して1580年あたりには大友水軍を毛利水軍と同等かそれ以上になっちゃってますw
田北紹鉄の謀反が鎮圧された頃、田原親貫が城井鎮房と秋月種実に支援されて叛乱。
毛利が支援で派遣した毛利水軍は大友の名将若林鎮興が大友水軍を率い瞬殺し周防灘まで追撃掃討戦。
毛利の大敗を知り、田原側の城が次々に開城し田原滅亡。
秀吉も大友の手法を学んだのか、来島水軍も1582年には秀吉の調略で織田に寝返る始末。

大友三老(臼杵鑑速や高橋紹運の父である吉弘鑑理)の吉岡宗歓(吉岡長増)や大友水軍育成の若林鎮興は大友の隠れた名将ですね。

ビビり臆した元就が陶と戦うのを嫌がったが、ホモ変態兄の義隆を殺されて激怒していた隆元が強硬に陶に謀反するのを主張したからやむなく。
さらに厳島合戦は因島村上と来島村上の水軍が主力であり、
地理的に因島は小早川と親しく、能島は陶と親しく
来島水軍が去就をハッキリしない時に、元就が来島水軍が味方しなければ、
我々は破滅と泣きの言葉を書いている。
陶が拒否した瀬戸内海水運において元就は大幅譲歩して来島を必死に味方にしたから陶に勝てたにすぎん。
北九州攻防戦では大友の吉岡宗歓にこの点を見事に喝破されて、陶に付いて負けた側の能島の村上武吉の買収に成功させられ、
村上武吉が見て見ぬフリをしてもらってる間に、毛利の船舶による補給ルートの破壊と大内再興軍の無事な中国地方上陸を成功させられ
水軍に頼りきる元就が他力本願で勝った厳島合戦は、
結果として大友が正確に毛利の弱点を認識し周到に謀られ毛利大敗敗走する原因を作っている。
筑前方面の通行税を取る権限を武吉にちらつかせ村上武吉を買収した吉岡は最初、
元就に謀られているのか確認で、筑豊方面の毛利軍へ送る周防の食料貯蔵地を奇襲してみたが、
武吉が動かなかったために元就は大したヤツじゃないと知り計略の成功を予見した。

大友三老が相次いで逝き、自らも余命幾許もない老将の道雪の孤軍奮闘と嘆き「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道である」
大友は毛利撃破で大友黄金期を迎えたが、それを支えた人材が相次いで逝くという悲運に見舞われた。
704名無し曰く、:2013/08/02(金) 21:50:58.17 ID:fnE7Ns2A
筑前侵攻ではその入り口に当たる筑紫攻めでボロクソになり、次の高橋紹雲攻めを国人達から拒否されて島津ボロクソ。
立花城攻めはもはや遠くからやあやあ騒ぐ以外に手はなく、挙げ句の果てに大敗走。
続いて占いで豊後侵攻を決めるあほぶり。しかもビビり迷って二度目のクジ引きで決めるw
天正15年病になる秀吉は新田八幡宮に乱入したかららしいw
南郡衆筆頭の志賀親度(義統の愛妾一の対殿を奪いとって囲ったのがバレた)の誘導で肥後口から攻めた義弘3万7000は1000に満たない親度の子の若干20歳の志賀親次の岡城で何度となく大敗。
やむなく義弘は岡城に留まり、新納忠元を玖珠郡、新納久時を大分郡攻略に向かわせるべく軍を3つにするアホな戦力分散をする。
しかし玖珠郡の要衝の角牟礼城で森五郎左衛門1000に忠元は大敗。
やむなく標的を日出生城攻略に変更するも、城を空にして出現した帆足鑑直300が急襲し忠元まで重傷になる大敗。
久時4000も権現獄城の狭間鎮秀300の奇策の前に敗走(のち義統が狭間を謀殺)
さらに義弘は決戦地を指定した挑戦状を叩きつけた親次にまた敗れるわ、
阿南惟秀の謀略で親次が笹原目城攻めをして白坂石見が討ち死にするなど敗北続きなために三者は合流せざる負えなくなり肥後口対は停滞。
日向口から豊後に入った家久隊は栂牟礼城の佐伯惟定の前に大敗(あまりの完勝なためのち秀吉が激賞した)。
王子ヶ城の野津院衆も島津を破る活躍。
やむなく臼杵方面へ転戦したら病み寝込みながら宗麟自ら指揮した丹生島城の国崩しの前に逃げ惑うハメに。
籠城に向かない館の大友館を放棄して龍王城に義統が向かったのに釣り込まれた島津はさらに深く侵入の上、鶴崎城で吉岡長増の子の妻妙林尼の知略の前に島津3000は16回攻めて落ちずに苦戦敗走。
そのため龍王城も杵築城もまったく落ちずに島津敗走。
その間に後方の鶴ヶ城を利光宗魚に奪われ撤退補給路を封鎖され慌てる醜態。
必死に力攻めしても落ちず。
結果、島津は半数の兵を失い、残った兵2万のうち実動可能兵6000に満たなかった。
さらに仙石が鶴ヶ城救援積極攻撃を主張したが義統の無傷の8000は拒否し兵力温存。
仙石3000長宗我部3000が盲信自爆
帰り道を作るために義久は鶴ヶ城を必死に攻撃、たまたま宗魚が流れ矢に当たり落命し開城したが島津3000も道連れにした。
その間に志賀、佐伯らが次々に城を奪回に後方遮断