信長の野望・創造 12作目

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667名無し曰く、
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿

>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。

越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。

>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。

捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響し%8