信長の野望・創造 12作目

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595名無し曰く、
直系などとアホなことを持ち出す低脳織田厨・・・
純血主義など日本には存在しない。先祖を祀り家を存続させるために養子を入れるのは
古来から盛んであり、先祖を祀れなくなることが不孝不忠とされた。
そして現在まで続く高家旗本武田家は武田信玄から数えて第16代(信玄次男の武田竜芳系を継ぐ家)として
武田神社崇敬会総裁(山梨県甲斐の国大使でもある)を勤めている。

純血主義などを持ち出した場合の卑しい織田家は下記。

文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長
つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるかまったく不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりから織田家かも?と妄想を膨らませ
「将」とは斯波義将の偏諱なので、織田家は斯波氏に仕えてた事実から
これが織田家の先祖に違いないと願望を持ち出すキチガイっぷりw
しかしそうなると織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論に変更を余儀なくされる。
だがこの妄言には落とし穴があり1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点では織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘され反論不能に。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏。どう考えても比較的新しい家であり歴史伝統など皆無。
これが名家名門の純血主義思想から来るクソ織田の血統。

光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。

秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。

小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
これですら、天童藩に較べればまだマシだったのだからお笑いであるwww
この時代に将軍お膝元の関東で貧困地獄だったのは織田だけと言うスペシャルぶり。
596名無し曰く、:2013/08/02(金) 18:23:30.77 ID:hNyhN5mi
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。