信長の野望・創造 12作目

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554名無し曰く、
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記
永禄11年9月19日
京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、
すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。

六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w

桶狭間は一次資料にないデタラメ
国力でいえば尾張57万石+交易収入+チート献金で織田の方が上

先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ

三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記には信長軍の突撃の前に「俄に急雨石氷を投げ打つように敵の輔に打付」たとある(陽明文庫本首巻)
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった

これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け

圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから

政宗レベルなら国力差2倍程度なら偶発的条件に頼らなくても撃退可能
555名無し曰く、:2013/08/02(金) 16:38:21.23 ID:JQVgNlL+
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
556名無し曰く、:2013/08/02(金) 16:39:36.61 ID:JQVgNlL+
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらずまったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んでやっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ天皇に和睦斡旋哀願。和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。そのうち信玄死亡情勢が流れる。すると情勢は織田優位に一変。天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長

元亀3年10/5の朝倉景亮書状により蒲生家すらも織田を見限るのがわかる。

先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。

金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年5/24信長→池田恒興 恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www

元亀4年3/7 信長→幽斎 畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www