信長の野望・創造 12作目

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547名無し曰く、
池上裕子氏 〜信長は人的破壊者〜
信長は多くの人を殺害した。
そして「鬱憤を散じた」というのである。
異常に感じるほど残忍なやりかたが多かった。
それでも敵対者は次々と現れ必死に戦った。
戦功を積み重ねても、謀反の心を持たなくても
信長の心一つでいつ失脚するか抹殺されるかわからない
不安定な状況に家臣たちは置かれていた。
一門と譜代重視のもと、譜代でない家臣には
より強い不安感があった。
独断専行的で、合議の仕組みもなく
弁明・弁護の場も与えられず
家臣に連帯がなく孤立的で、
信長への絶対服従で成り立っている体制が
家臣の将来への不安感を強め、謀反を生むのである。
領域支配には譜代と家長権を振るえる子供や弟の登用が中心になる。
自分のそばにいて手足のごとく動き、あるいは自分の意を体して
各地に赴く者たちも譜代であった。
信長の政権の基盤は一門・譜代にあった。
長住は信長の怒りを買って越中を追われ、二度と戻ることはなかった。
もう用済みだったのである。
一度でも失敗すれば、それを理由に存在を否定される。そのようにして国人層の多くが命脈を絶たれた
548名無し曰く、:2013/08/02(金) 16:34:37.28 ID:JQVgNlL+
公記は信長の子で、武田に人質にされた織田信房(勝長)の名前を知らず
お坊などと呼称する有様。知らないわけがなくあきらかに太田が書いたものではない。
また信長の長男は塙直政の妹を母として天文23年に生まれた信正であり
(直政がロクに功績もないのに守護に抜擢されたりと厚遇されたのも信長嫡男の叔父という地位から)
塙直政が本願寺包囲中に討ち死にしたことを口実に塙一族から所領を没収し
指名手配をしたので、信正を存在しないことに公記は捏造。
実際は信長が生駒氏と寵愛しはじめた為、信忠を嫡子にするために塙は犠牲となったのだ。
(公記は光秀の妹が信長の寵愛を受けていたが天正9年8/7頃に死去したことも
わざと記さず光秀謀反の遠因まで隠蔽。光秀は直政のような末路を危惧して
多聞院を前にしての光秀は無比類力落也を隠さなかった)
他にも信長の舅として紹介される道三の説明において
斉藤山城道三は元来山城国西岡の松波と云ふ者なりなどと書く
完璧に後世の講談話に影響された致命的デタラメを公記は書いており
道三の父の長井新左衛門と道三の二代の事跡を道三一代の事柄としてしまっていたり
政略結婚のために行われた道三と信長の聖徳寺の会見をデッチあげるなど嘘を書き連ね
濃姫についてまったく知らないなど、逆に濃姫まで架空人物かと疑わさせるほどの
デキの悪い創作をする始末で尾張の隣国なのに美濃について余りにも無知すぎる。
549名無し曰く、:2013/08/02(金) 16:35:26.73 ID:JQVgNlL+
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
この大著の完成は甲陽軍鑑の評価を一変させ好転させた。
これを読んでいない、または存在を知らない研究者はド素人である。
それどころか桶狭間の戦いにおける
黒田日出男氏を始めとした今川軍の兵が乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは公記の記述を盲信している正面攻撃を元とする藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍参謀本部の苦肉の発想であった迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
(信長公記が高台の今川軍を低地から出撃した織田軍が正面攻撃して勝ったと書く
現実にはありえない妄想ぶりに参謀本部も頭を抱えた結果、妄想を膨らませ迂回奇襲しかありえないと結論した)
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。