信長の野望・創造 12作目

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516名無し曰く、
山縣や馬場が長篠で討死したとする一次史料は? すでに学術論文では、馬場美濃守討捕の感状である武家雲箋収録の7/20付の信長→岡三郎宛書状写も
研究の余地ありと偽文書指摘されてるくらいなんだけど。墓とかも史料的根拠ゼロだから。また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。「穴山信君、武田信豊、小山田、甘利、諸頭がつつがない」と一条信竜、小原宮内丞、三浦員久らの質問に勝頼が返信してる。
勝頼の側近団を中心とした改編がなされてたと見るべきだろう。真田の家督に昌幸を送り込んだりと勝頼派閥の形成があったのだろ。謙信から景勝への移行でも側近団の大異変が起きてるように、
前当主家臣団と新当主家臣団への移行は一次的に家の弱体化が起こる。外征を控えて内政に集中し、掌握に務めていたから奥平離反とかあったわけだし
んでも、山県の最後は采配を口に咥えたままだったって言う逸話は好きだけどね。有名武将が畳の上で死ぬより、壮絶な死に方したほうが大衆受けするし
実際、軍記講談話を除けば、馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて6000の兵力で長篠に現れたとしか思えない。だからこそ信長は深く追撃することを恐れてさっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、構造改革があって引退してるんじゃないか? 長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、秋山のことは引き寄せてから今日、磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど
天正元年7/30の時点では、武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。天正3年4/16の内容は>644に書いてあったんだな。その文書に昌幸が登場する。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
517名無し曰く、:2013/08/02(金) 14:17:35.50 ID:fnE7Ns2A
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。