信長の野望・創造 12作目

このエントリーをはてなブックマークに追加
513名無し曰く、
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
伊勢湾貿易の富を独占し商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
514名無し曰く、:2013/08/02(金) 14:14:33.52 ID:fnE7Ns2A
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していて東アジア最高の土地になってしまいとてつもないものだったろう。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
金ヶ崎の時は敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから織田の奇襲が成功しただけだし、
えっ?天下の儀を朝倉が行うように信長が言った後、
信長は京からも撤退して明け渡してんじゃんw
元亀2年に天下の儀の主権者となった朝倉が六角に入京した時に放火とかしないようにって命令してるし。
信長が再度、入京するのはその後に荘園返却すると破産する信長が勅命を破って比叡山焼き討ちした後だろうがw
しかも信長は京洛内外で強制没収した兵糧を高利で貸すトイチ金融まで京で始めてるし…