信長の野望・創造 12作目

このエントリーをはてなブックマークに追加
501名無し曰く、
織田厨はバカ無知だから相手すんなwどうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。
仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。
信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて
六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。 志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣
772 :人間七七四年 :2013/06/12(水) 11:23:50.63 ID:/rnb16KK
三好長慶が前年7月に死去していて、六角は畠山と合流して反抗を企てており 永禄8年正月には六角義承禎が丹波で蘆田越前と萩野(赤井直正)を調略したから
至急丹後へ出兵するように若狭武田氏に書状を出してるし 2/20には実際に丹後で行動を開始してる。
8/2には萩野が久秀の弟の内藤備前(松永長頼)を討死させて六角側が丹波を三好から奪回。
これで御前立てが確立し覚慶を甲賀和田城から野州郡矢島御所に移して義秋と名乗らせてる。
ちなみに和田氏は将軍御供衆で六角高頼の子である高盛の子であった景盛が養子に入っていて
義昭の脱出は彼と朝倉氏が協力していた(甲賀和田氏の一族は尾張内にも佐治・池田・前田系がそうだと言われてる)
永禄9年8月に信長がビビって上洛戦を取りやめたあとに、三好軍がやってきて六角内の義昭上洛派が破れ
義治と三好による六角政権の専断という事態に発展し これに対して六角重臣義昭派が反撃し、永禄10年4/18に義治を屈服させて
六角氏式目の発布で分国法を強制させ義治の領主権の大幅後退を強要させた。六角氏が内紛し弱体化したのは信長が上洛を取りやめたことで、
まとまっていた六角氏が再度、政治闘争時代に逆戻りし 三好の後援で重臣を従えたい義治と六角重臣が再対立したから。
信長の永禄11年の上洛戦開始前も六角氏配下の和田氏など甲賀衆が信長と連絡を取り合っていて
言続卿記によれば9/11に信長と義治を支援するためにやってきた三好軍の石成友通が激突し
石成ひとりの為に織田軍は互角の戦いを強いられ、双方が美濃、京へ退却。12日に観音寺城からの内応を得て再度織田軍が再出撃し
精鋭が篭る和田山を迂回し観音寺からの攻撃の危険性を無視して義治の箕作城を電撃奇襲し義治が甲賀へ脱出し上洛に成功。
(愛智川で織田と対峙する最前線の和田山城に義治の精鋭が入り、
反義治の重臣達は和田山守備から外され観音寺城に篭り、義治がいた箕作城とは峰続き)
信長公記はこの辺りのことを丸々隠蔽してるわけだ。関が原の時に西軍に味方しない義郷を殺すと近江がまとまらなくなると言って拒否した際に
義郷は近江の舊主(旧主)という言い方をしている。義治との対立軸に義秀→義堯→義郷が近江の舊主として六角重臣のまとめ役にいるのは明らか
502名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:34:09.62 ID:fnE7Ns2A
一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江?関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。

信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
503名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:34:35.21 ID:fnE7Ns2A
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
504名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:35:14.54 ID:fnE7Ns2A
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
505名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:49:02.56 ID:fnE7Ns2A
織田厨はバカ無知だから相手すんなwどうせ信長が北伊勢で北畠へ攻撃かけたと思い込んでるんだから。
実際は六角氏から伊賀国主仁木氏へ養子に入っていた仁木義政が天文11年10月に北畠を破り仁木氏の旧領だった
北伊勢一円の朝明郡・員弁郡を取り戻している。仁木義政は幕府御判衆で永禄10年に義昭が朝倉義景邸御成りの時には
義景の後見者のようにしていて朝倉取り次ぎをしてたと思われてる。信長が戦ってるのは仁木氏の統括エリアであって北畠の統括エリアじゃない。
信長公記では六角氏をワザと弱く見せかけていて六角氏関連人物を消しまくってる。それは信長マンセーに都合が悪いからね。志賀福田寺文書の和田惟政12/17三雲対馬親子宛て文書では
六角氏が浅井と織田の婚儀を取り持ってるのがわかるし信長のために上洛の協力してた六角義秀が死んだことに驚愕して義偵の帰国を恐れる信長の姿が永禄12年5/11信長→浅井書状でわかるし
婚姻斡旋者の義秀が死んだことと義偵の帰国により浅井・織田の同盟が崩壊したのは明らかだし二条宴乗日記5朔を読む限り浅井が謀反?の噂が届いたから
信長が京へ帰ったのはわかるが、金ヶ崎の戦いなどと言う浅井と朝倉の挟撃を受けた4/末の秀吉殿の撤退戦なんて存在しておらず
義偵が鯰江城に入り浅井と連絡して5月になってから挙兵し下記のような戦いになっただけ。言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣 三好長慶が前年7月に死去していて、六角は畠山と合流して反抗を企てており
永禄8年正月には六角義承禎が丹波で蘆田越前と萩野(赤井直正)を調略したから
至急丹後へ出兵するように若狭武田氏に書状を出してるし2/20には実際に丹後で行動を開始してる。
8/2には萩野が久秀の弟の内藤備前(松永長頼)を討死させて六角側が丹波を三好から奪回。これで御前立てが確立し覚慶を甲賀和田城から野州郡矢島御所に移して義秋と名乗らせてる。
ちなみに和田氏は将軍御供衆で六角高頼の子である高盛の子であった景盛が養子に入っていて
義昭の脱出は彼と朝倉氏が協力していた(甲賀和田氏の一族は尾張内にも佐治・池田・前田系がそうだと言われてる)
永禄9年8月に信長がビビって上洛戦を取りやめたあとに、三好軍がやってきて六角内の義昭上洛派が破れ義治と三好による六角政権の専断という事態に発展し
これに対して六角重臣義昭派が反撃し、永禄10年4/18に義治を屈服させて六角氏式目の発布で分国法を強制させ義治の領主権の大幅後退を強要させた。六角氏が内紛し弱体化したのは信長が上洛を取りやめたことで、
まとまっていた六角氏が再度、政治闘争時代に逆戻りし三好の後援で重臣を従えたい義治と六角重臣が再対立したから。
信長の永禄11年の上洛戦開始前も六角氏配下の和田氏など甲賀衆が信長と連絡を取り合っていて
言続卿記によれば9/11に信長と義治を支援するためにやってきた三好軍の石成友通が激突し
石成ひとりの為に織田軍は互角の戦いを強いられ、双方が美濃、京へ退却。12日に観音寺城からの内応を得て再度織田軍が再出撃し
精鋭が篭る和田山を迂回し観音寺からの攻撃の危険性を無視して義治の箕作城を電撃奇襲し義治が甲賀へ脱出し上洛に成功。(愛智川で織田と対峙する最前線の和田山城に義治の精鋭が入り、
反義治の重臣達は和田山守備から外され観音寺城に篭り、義治がいた箕作城とは峰続き)信長公記はこの辺りのことを丸々隠蔽してるわけだ。
関が原の時に西軍に味方しない義郷を殺すと近江がまとまらなくなると言って拒否した際に義郷は近江の舊主(旧主)という言い方をしている。
義治との対立軸に義秀→義堯→義郷が近江の舊主として六角重臣のまとめ役にいるのは明らか。
506名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:49:45.50 ID:fnE7Ns2A
熱田〜伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
507名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:50:28.41 ID:fnE7Ns2A
熱田〜伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
508名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:51:12.22 ID:fnE7Ns2A
合議制は六角が重臣に強要されたり、
斎藤道三や武田信虎や長尾為景の失脚と
義龍や晴信や輝虎が合議制の導入。
また今川義元が雪斎の意見に従い合議制を導入。
北条も合議制導入。
秀吉の五大老制移行も合議制。
伊賀や大和や摂津や和泉も国人のコミュ二ティー間の合議。
信長は盲目的に封権制を推進し、
時計の針を逆にしようとしたから時代の空気に殺された。

一段が500文というのは荘園の基準貫高であり
北条も今川も一段が500文だったので
遠江〜関東に渡って共通した荘園の統一基準。
しかし武田が駿河を領有すると荘園システムの再編成を開始。
一段を田畑の内容の吟味を通じて
500文・400文・300文の三等級にすることで
税負担を軽減した。これはその後、徳川に引き継がれていく。
また武田が統治政策として一斉に発給する公文書と言う形式も
七か条の定書などの例を見れば徳川が継承しているのがわかる。
武田の統治ノウハウが徳川の地方支配として継承されている点からも
武田家臣団&給人の優秀性が見て取れる。

信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
509名無し曰く、:2013/08/02(金) 13:51:44.76 ID:fnE7Ns2A
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。