信長の野望・創造 12作目

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14名無し曰く、
ゲームでは下記の事情が全く反映されてないからな

スタートでは毎年餓死者が続出する貧国甲斐と自立性高い国人から主導権を確保する所から始めた信玄に対し、豊な尾張で最強の弾正忠家を継いた織田
貧しい山国で自立性の高い国人で、毎年のように飢饉や水害が発生しまくる土壌が有りとかいわれてもな。織田なんざ異常に裕福な所を勢力にしてただろうが

信長は津島湊や知多南郡の木綿の生産地を掌握し、尾張でもダントツの経済力を有していた信秀の子に生まれた。織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。
北伊勢含めばもっと上がる。幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。尾張は石高的にかなり条件の良い国
京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。西は木曽・揖斐川の大河に守られ東と
結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく武田の本拠地も遠い。
周りの大名も今川義元は運良く戦死跡継ぎの氏真は暗愚松平家は独立 同盟で後方の安全を確保 斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた 三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者 織田軍45000を大破した後に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅 足利義昭も信長の所に来た
15名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:29:16.25 ID:ZBVjJ9He
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
16名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:30:08.36 ID:ZBVjJ9He
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
そしてこの攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をすることになる。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである
17名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:31:48.38 ID:bNvp1M75
信長の周辺は弱い大名ばかりだが
信玄の周辺には実力が同等国か同盟国ばかりだった。
仕方ないから謙信方面に行くしか道がなかったよね。
甲斐は鎌倉公方や古河公方などの関東勢と将軍との権力争いの修羅場だったからな。
双方ともどもの後ろ盾を得て代理戦争してたから守護代や国人どもが暴れまわり混乱に拍車がかかった。
この管轄外へも影響力を及ぼそうとするやり方には関東管領とそれに協力する将軍側の駿河今川氏も困惑していた。

信重の跡を継いだ武田信守は5年で死亡し、(上杉禅秀の乱での武田の失敗を機会に立場を逆転した跡部氏)
実権を持つ守護代跡部駿河守明海・上野介景家親子に暗殺されたと言われている。
さらに飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生が多くなる時代へ突入した武田信昌が継ぐと穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏ら
国人層もどんどん力をつけてきて完全な甲斐戦国時代へ突入。
家督を信縄に譲った後に信昌は次男の油川信恵への家督相続を考え始めて、それぞれの国人が彼らを擁立し内乱発生し
混乱に乗じて北条早雲んぽ甲斐進攻まで招く。
東郡の栗原氏、西郡の大井氏はもはや武田氏の統制から離脱し穴山氏と離合集散を繰り返し
おまけに明応の大地震まで勃発し一揆は頻発し甲斐乱国とまで王代記に書かれる。
こんなむちゃくちゃな甲斐国を継いだのが信虎。もう国内政治内政を無視したとんでもない人だったから
甲斐国史上最大の暴君とされ、武田氏は怨嗟の泥まみれだった。だから甲斐国主の座を追放されてしまった。


信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ

塩山向嶽禅庵小年代記

信長文書研究で有名だった奥野高広氏の信虎評
「奉公衆が他国に逃げるような事態をひきおこすようでは、守護の地位を保つことはできないだろう」
武田研究で有名な上野晴朗氏
「天文5年以来の家臣団の離反が根にあり、義元と同盟したことで、北条氏をより強く敵に回したことで、
北条と今川の友好関係が破れた。
このような関係は武田家臣団の喜ばぬところであり、
対隣国関係の政策上で信虎と家臣団は二つに意見が割れた」

信虎のワンマン独断専行的態度に対する家臣団の不満と過酷な収奪による農民の疲弊。
これは道三や信長とも共通した性格であろう。
一方、信秀は類い稀なる器用の人と賞賛され、その才覚で人心を得た。
18名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:33:04.35 ID:pFF0mrMK
信長の周辺国は悉く内訌・分裂・弱体化してたしね
斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊
六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める
上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
19名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:34:12.34 ID:jKZD0gXc
信長は最終的に光秀に殺されて負けたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
秀吉も織田家を一時火事場ドロして勢力広げたけど結局徳川に大敗して滅ぼされたし
20名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:34:53.18 ID:bNvp1M75
最大石高なんて自国の周辺国が弱体化・分裂してたり自国の国力に比べて弱小かどうかってだけの話じゃん
なんで比べる基準が「最初〜最後までの結果」あるいは「最初から最後まで経過や状況考慮した個々の戦闘や外交や内政などの考察」
ではなく「最初から最後までのある特定時点での比較(経過・状況等も無論無視)」なのか意味不明
そんなんがありなら本能寺時点で広範な領土があった織田家は信長が殺され結果的に大きく版図が減少したから
一代で失った石高ランキングでダントツトップだからダントツ最下位クラスだなw
まあ最大石高なんてある一時点での考察にすぎないし結果だけでみるなら光秀に殺されて死に織田家を木っ端微塵にされた信長は能力0だしな
領土の広さってそれ程関係ないんだよ
カナダやカザフスタンは日本より広いけどどっちも大したことない
戦国時代も同じで例えば毛利輝元や大友宗麟や大内義隆や豊臣秀吉や織田信長や北条氏康は広かったけど弱かった
相馬なんか伊達の5分の1程度の領土で半世紀も互角に戦ったし
田村清顕なんて周辺諸大名がこぞって敵対する状況ですら敢闘して撃退してる。
織田や北条や豊臣や毛利は領土広くても将が無能だから里見や信雄や宇喜多や浅井朝倉武田などに翻弄されたし
信長なんか北畠に大河内城で撃退されたり一揆勢相手に餓死寸前のところを数万の大軍で騙まし討ちにして一門10人以上殺されたりしたわけ。
織田みたいな光秀ごときに滅ぼされた雑魚大名と自国の2倍もある信濃を切り取ったり
大国北条今川連合に打ち勝って駿河とったり織田徳川連合に打ち勝って東美濃三河遠州を多く奪った
徳川時代軍学でも最強とされた大名を比較する事自体が間違い。
織田と比べるなら大友宗麟・伊達政宗・北条氏康・長宗我部元親あたりがちょうどいい。
それでも戦闘でいえばダントツで信長が最下位だろうけど

光秀に殺されて死んだ信長w

最貧国甲斐から上杉北条織田徳川など国力に勝る相手に領土切り取りまくり150万石まで広げた信玄w
結果でいえば信長は能力0だからなぁ
経過をちゃんと考慮して石高なんぞで比べず状況や運やら地理条件考慮するってのならわかるが
21名無し曰く、:2013/07/31(水) 03:39:37.09 ID:ZBVjJ9He
織田徳川の大軍に対して行われた三河遠州侵攻作戦とか三方が原、長篠の戦いなんて武田が少ない兵力で侵攻しまくってるし対北条今川戦でも武田が侵攻側で
大国今川北条が防衛側だが北条今川相手に勝ちまくってるし信濃・上野の山間の天嶮によって割拠するガチンコ山城を攻撃側としては少ない兵力で落としまくってるからな
長篠の戦いも「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
以上のように織田徳川を寡兵で圧倒しまくってるし圧倒的に戦上手な部隊としかいいようがない

秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし