信長の野望・創造 10作目

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851名無し曰く、
竜造寺と必死に戦っていたのは
有馬や赤星らで、島津軍は後方でビビってただけ。
隆信が討死したのは鍋島が内通したからで
内通による隆信討死が無ければ大敗してたのが島津。

大友は勢力範囲を決める和睦交渉中を提案していたのに
それに反対するバカが勝手に戦端を開いたので
大友側には戦略も戦術もなく、ただ突っ込んでいく泥縄的展開になって自爆
角隈石宗がこの戦いにわざわざ参加してきたのもキリスト教抹殺の会議をするため。

島津兄弟はむちゃくちゃ仲が悪く協調性ゼロ。
それに戦略軍略は神前でのくじ引き。
これを義久には諸将を統御できる力がなく、
神前でのくじによって不平を言われないようにする逃げの手であり
失敗しても言い分けがたつからだとしている。

無謀な戦いを仕掛けての大口の大敗の時も
川上久朗を捨てガマリにして義弘敗走してるし
基本的に義弘に戦略眼は無い。
ただ無謀なだけ。
852名無し曰く、:2013/07/12(金) 16:36:14.95 ID:emprusKI
大友侵攻にしたって
秋月・高橋・長野兄弟が暴れていて
豊後軍は豊前戦線に投入されていて
豊後国内は空っぽ。
そこを島津が空き巣に入っただけだしな。
南郡衆が内応していたから道案内してもらい
豊後国内へ簡単に侵攻できただけ。
なんらの武略もないから
すぐ苦戦して逃亡。
853名無し曰く、:2013/07/12(金) 16:37:17.16 ID:uUBtFlbj
>>851
基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。

天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。
相良の援軍として1556年から大口城へ入り駐屯した赤池長任とその配下の岡本頼氏
この両名に島津はフルボッコ&報復攻撃の連続で義弘は完全に涙目。
なにしろ1568年に赤池長任が死去するまでの10年以上に渡りまったく落ちる気配すらなかった。
赤池が死去した翌年にやっと落城。
ちなみに島津の豊後侵攻で大友にボコボコにされて岡城方面から肥後へ抜ける退却路を封鎖され
家久がフルボッコされながら日向へ落ちて行った佐伯地方から
義弘もズタボロになりながら脱出を図った時に
義弘が死にそうなのを助けて殿を務めて命を救ってやったのが相良からの援軍の岡本頼氏。