信長の野望・創造 10作目

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772名無し曰く、
山縣や馬場が長篠で討死したとする一次史料は?
すでに学術論文では、馬場美濃守討捕の感状である武家雲箋収録の7/20付の信長→岡三郎宛書状写も
研究の余地ありと偽文書指摘されてるくらいなんだけど。墓とかも史料的根拠ゼロだから。 また戦死に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。「穴山信君、武田信豊、小山田、甘利、諸頭がつつがない」と
一条信竜、小原宮内丞、三浦員久らの質問に勝頼が返信してる。勝頼の側近団を中心とした改編がなされてたと見るべきだろう。
真田の家督に昌幸を送り込んだりと勝頼派閥の形成があったのだろ。謙信から景勝への移行でも側近団の大異変が起きてるように、 前当主家臣団と新当主家臣団への移行は一次的に家の弱体化が起こる。
外征を控えて内政に集中し、掌握に務めていたから奥平離反とかあったわけだし んでも、山県の最後は采配を口に咥えたままだったって言う逸話は好きだけどね。
有名武将が畳の上で死ぬより、壮絶な死に方したほうが大衆受けするし 実際、軍記講談話を除けば、馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、 嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。 しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、信長も感状を一切出すことも無い。 唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、 勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、 山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて6000の兵力で長篠に現れたとしか思えない。 だからこそ信長は深く追撃することを恐れてさっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。 真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、構造改革があって引退してるんじゃないか? 長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、秋山のことは引き寄せてから今日、 磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。 実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど
天正元年7/30の時点では、武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
天正3年4/16の内容は>644に書いてあったんだな。その文書に昌幸が登場する。
信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。