信長の野望・創造 10作目

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546名無し曰く、
関が原時の島津は領国の兵ほとんど関が原に連れてきてる(8/20義弘→本田正親書状で惣在国之人集ハ彼表へ在番可申付と書いてる)
石田三成人数書立にも美濃口 羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千人と書いてるし
伊達家文書の関が原合戦時の記録にも同様の人数。
後合戦後徳川が敵方島津を褒めたなんて事実はない
敵中突破って島津軍6000は徳川方にほとんどぶち殺されて数十騎で命からがら帰ってきたんだがw
真田文書・石田三成人数書立・慶長見聞書  羽柴兵庫頭(島津義弘) 六千騎
8/20義弘→本田正親書状 惣悉在国之人集ハ彼表へ在番可申付

島津が寡兵とか馬鹿じゃね
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
547名無し曰く、:2013/07/09(火) 14:59:04.12 ID:j5wlc9Hg
>>関が原からの退却はマジで凄いけど、凄惨過ぎてテレビ向けじゃないんじゃないかな。
>>家康の本陣を真正面から突進してぶち破り退却したのは

それ何にかかれてるかしらんが、明らかにデタラメ
井伊年譜とかには全くこのときの負傷記録もないし二人ともそもそも関が原直後から戦後処理で東奔西走してる
9/22毛利輝元、徳川氏との和成り、其本領を安堵せしめられしを喜び、井伊直政・本多忠勝及び福島正則・黒田長政に誓書を致し、大坂城西丸を去らんことを告げる
9/23徳川家康の老臣井伊直政、紀伊高野山に在る前近江大津城主京極高次を招く、尋で、家康、高次の弟同高知・山岡道阿彌を遣し、大坂に來らせる
9/25是より先、肥前佐賀の鍋島勝茂、井伊直政・本多正信・相國寺圓光寺の元佶(閑室)等に頼りて、罪を徳川家康に謝す、家康、筑後柳河の立花親成(宗茂)を攻めて、之を償はしむ、是日、勝茂、家康・秀忠父子に謁し、尋で、龍造寺高房を留め兵を率ヰて歸國す、
10/12土佐浦戸の長宗我部盛親、徳川家康の老臣井伊直政の勸に依り、大坂に至る、尋で、家康、盛親の封を收む
10/17井伊直政、徳川家康の命を受け、鈴木重好等をして、土佐浦戸の長宗我部盛親の諸城を收めしむ、尋で、土佐を與へられし遠江掛川の山内一豐、其弟康豐をして、入國せしむ、
11/13徳川家康の老臣井伊直政、重ねて、島津維新(義弘)・同忠恆をして、速に、家康に其罪を謝せしむ
12/13徳川家康の老臣井伊直政・山口直友、重ねて、島津龍伯(義久)・同忠恆の上京を求む、
12/23是より先、黒田長政、其封筑前に入る、是日、島津維新(義弘)に、徳川家康の老臣井伊直政に頼り、罪を家康に謝せんことを勸む、
翌年も引き続き政務こなしまくってる
井伊なんか死んだの2年後なのになんでこのときの傷が死亡原因にされてんだよwww