787 :
名無し曰く、:
○織田対上杉 謙信生前…1万8000程度の寡兵で柴田&織田家オールスター武将4万以上に正面衝突で大勝
謙信死後… 御館の乱やその後の内戦・新発田の乱につけこんで圧倒的大軍&長・神保等地元大名の活躍と調略で能登・加賀・越中を火事場泥棒したのに
越中中部で天正8年から天正10年半ばまで2年も足止めされた挙句土肥・小島・須田などに大苦戦しロクな防備もなかった平城の松倉の枝城にすぎない魚津城攻防で上杉が信濃に
派兵した隙をついて 居留守泥棒的に行ったにもかかわらず大苦戦。松倉の須田に手も足も出ずに苦戦し撃退
新発田は完全に新潟から排除されて下越で包囲され逼塞
連発した内戦による瓦解・信濃5000・越中加賀能登越前飛騨(美濃の諸将も援軍に来てた)55000・下越2000・奥州(?)・上野(20000)
から総兵力8万そこそこで動員兵力5000〜8000そこそこの上杉に信濃長沼で敗北越中中部で苦戦した織田軍
上杉37万石程度(御館の乱や新発田の乱で極端に瓦解)に 伊達・芦名・新発田と共同戦線で9倍の兵力差でもって
2年も越中中部〜魚津・松倉のわずかな区間で進めず立ち往生
金森ら飛騨口部隊も松倉に手も足も出ず 森は長沼攻防に敗北して以来眼前の長沼・仁科方面すら奪回できず
滝川2万は三国峠の戦いで上杉方カラス組奇襲部隊に蹴散らされ敗北 新発田・伊達・蘆名も下越で逼塞
上杉5000〜8000に対して総勢8万そこそこで廻りから総勢で攻め込みまくって勝てなかったのが織田家トップの柴田
武田対織田…
上村合戦…武田の圧勝。東美濃攻防戦…武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方ヶ原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間・平手・滝川・水野・前田兄の大軍2万が敗走、平手・前田兄戦死
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
長篠の戦い…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
○武田と徳川…三方が原の戦いで織田の大軍2万&徳川8000を見事正面衝突で敗走させられる
勝頼時代も大いに苦戦し田中城に手も足も出ず高天神城に大苦戦
○織田と徳川…織田は大軍で寡兵の浅井に苦戦し当時の織田四天王の息子の坂井久蔵戦死。
徳川は寡兵で大軍の朝倉に勝利し、瓦解した織田軍を救って引き分けもで持っていく
秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
以上をまとめると上杉>>武田>>>>>>>>徳川>>>>>>織田>>>>>>>>>>豊臣
788 :
名無し曰く、:2013/06/10(月) 17:50:30.79 ID:DZ0TXAkr
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
789 :
名無し曰く、:2013/06/10(月) 17:50:50.37 ID:DZ0TXAkr
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。