信長の野望・創造 7作目

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776名無し曰く、
長家家譜(織田側)

そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、


信長不在で4万人を動員している。その後、秀吉の離脱、退却などいろいろな説があるが、
おそらく隠蔽したい真実があるのだろう。

長家家譜によると
長連龍は進軍を望んだが、秀吉には真実を打ち明け、秀吉が撤退していることになっている
ここで謙信は先に松任(石川県松任市)まで南下している
更に柴田勝家は水島まで進軍している(石川県白山市水島町)
手取川を渡り謙信の陣まで約1kmまで進み、数的優勢の状況で、
撤退を判断するというのは軍事的にありえないのでは無いだろう。

戦後、柴田だけでは北陸防衛が不可能になったために
織田軍最大兵力の七ヶ国の与力を信長から与えられていて
畿内軍として石山本願寺攻囲の指揮官をやっていた
織田家No2の佐久間信盛まで北陸防衛に派遣されてる。
しかも毛利の攻勢に謙信の死が確定が事実なら信長自身が毛利攻めに行くと書いていて
信長自身も謙信への備えで動けなかった。
777名無し曰く、:2013/06/10(月) 17:20:18.06 ID:DZ0TXAkr
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退

天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。

>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。

越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。

>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。

捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww