>>490 >>息子すらぶっ殺す悪党信玄
信玄は息子を殺したくなかったんだよ。つかそもそも殺したとはどこにも書いてないから病死だろうし。
永禄8年5月に富士山麓の勝山で、義信妻(今川からきた)のために信玄は祈祷してあげてるし、
でも6月に義信は甲斐二の宮美和神社で不穏な集会を開いた。この出席者の署名のうち17名中4名は名前に花押がない。これは反信玄決起集会に集まらなかった人々がいた証拠とされる。
そして10月に飯富を親子不仲にする陰謀の罪状で死刑にしてる。11月には去る6月より文句が多いと三枝昌貞を信玄は叱責してるし、
翌年8月に三枝を含む3人が知行を与えると言う条件で信玄に反逆を企てたりしませんと信玄に忠誠を誓ってる。その後に義信の存在がまったく無くなると鴨川氏が指摘してる。
義信は明らかに信玄に反逆し、その態度を改めなかったので自業自得で自滅した。信玄は父を追放してるだけにそれを黙認するわけにもいかなかっただろうね。
信玄は晴信を殺したとは一次史料にはないしただの急死だろ。そもそも嫡男殺したのはまずい事だと連呼してるバカ長厨は江戸幕府を作った家康が信康を殺したことはどう思ってんだw
それに本能寺の変の時に信長は秋田城介(信忠)の仕業か!と言ったと言うから嫡男の謀反は想定内のことだったようだしな。
だいたい自害に追い込んだのは家康だろ!なに混同してんだw天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてる。ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてる
織田厨ってなんでこんな初歩的なことも知らずに無知を晒すだけでなく武田義信のことと恥ずかしくもなく混同して書いてんの?
>>将軍家仲介の和睦を平気で反故にする信玄
いやいやそんな証拠はいっさい無い。第三次川中島の戦いの後、信玄に交戦の非難が幕府から届く3月まで甲越両軍とも戦をした形跡が一次史料からはまったく確認できない。
信玄は反論として謙信の方が従わずに信濃へ出兵して海野地方を放火したと言ってる。その後、謙信は二度目の上洛して義輝に会っている。
永禄11年3月からの義昭・信長による近じか上洛するからお前ら和睦して上洛してきて協力しろよ交渉の時も9月に謙信が武田の使者を抑留して断交宣言するなど、
武田側に非は見られない。(ちょうど謙信は今川氏真との武田挟撃の秘密交渉を成立させていた)
>>朝敵にされても、まったく動じなかった約束破りの常習犯信玄
信玄は朝敵になんてされてねーぞ・・・むしろ幕府へ宛てた逆賊信長打倒の激文を正親町天皇が取り寄せて筆写し醍醐理性院に奉納してるほど。
その後の話は同意。信長は何も考えてなかった乱暴者に過ぎない。
>>同盟を破り奇襲したキチガイ信玄
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が、今川が武田に攻められたのも止むを得ないと情勢報告してるから、信玄が今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた。
ちなみに義昭の斡旋で越後と相模と甲斐の同盟が水面下で動いていたのを今川が察知して焦って俺を同盟の保証人にしてくれ除け者にすんなよと今川は参入を希望して
そんなの噂だけでねーよwと拒絶されたっぽい。だとすると今川に内緒にしていた北条も同罪だしな。武田と北条が上杉と戦っている裏で、今川が上杉と秘密同盟する表裏をしていて、
武田に起承文を出したことまで上杉に報告。武田が本庄を謀反させ 飯山城攻めし、上杉を追い込んでいる最中にこんな真似をして、
駿甲国境を封鎖するは、謙信に信濃出兵を依頼する始末。しかし信玄が一揆を依頼したために謙信は越中攻めする必要に迫られて無理だった。
ここにおいて武田が今川攻め開始。明らかに今川が関係悪化をエスカレートさせてる。
と言うか開戦に向けて今川が動いてる。
>>同盟を破って家康を攻撃した同盟破り常習犯信玄
絶対許さんと書いてるのはたしかだけどあれは完全に屈辱感から来る逆恨みだろwそのくせ謙信にビビッて勝頼に和睦要請して拒否られてるのが信長w
1/8 に秋山を呼び戻したと信玄が家康や1/9信長へ謝罪して問題解決済み。2/18、3/13 家康と謙信が情勢報告をしたりと内通交渉している事実