信長の野望・創造 5作目

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220名無し曰く、
三好の内紛は信玄死去で義昭追放と信長が反攻を開始してから織田との和睦派と抗戦派の間で勃発しただけ。篠原長房もこの政変で死んだ(讃州燎乱)
義昭の外交を担う義堯が信長から離反したのが元亀3年。10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる(義昭が淀城を信長の金で修繕していたwww)
京の西側は三好による平定が完了し、すでに三好勢力圏になってるわけですがw天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち信玄死んだ武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしないのは甲越和与によるもの。
ちなみに天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて堺に上陸している。信玄が死んだ軍事的バランス崩壊後に
浅井朝倉が滅び義昭が追放され義継が滅ぼされ松永が降伏した一連の大変革による三好内の政変で反織田の篠原長房が失脚し死んだとみるべき。
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないとされてる。
なんせ長房&息子は四国で自遁に殺されたことになってるから
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)

武田征伐で諏訪の陣において織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタwしかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
信長は細川高国と敵対した細川晴元の嫡子の信良に自分の姉妹を嫁がせて京兆家の義兄になってるし
細川高国後継者の氏綱を擁立し京兆家の政治的な力を奪った三好長慶とやってることは何ら変わらないと言うより二番煎じ。
信長は京兆家の義兄の立場を利用してる分だけ旧時代の権威への依存度が高いだろ。
義尋を手元に置いておけば歴代の有力者みたいにいつでも義昭を廃して義尋を将軍に擁立できるだろ。
実際は関白になった秀吉の時期に義昭の将軍位は廃されたようだけど。
三法師の件だって別問題じゃないだろ。家臣によって織田後継者が左右されてる時点で信長がシステムを作ってないことに起因してる。
義尋を手元においている信長と三法師を手元に置く秀吉ってのも同じ性格を有するものだ。