信長の野望・創造 4作目

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417名無し曰く、
信長や秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
こうしてみると信玄はやっぱりすごいよなあ
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末

信長が甲斐にいたら諏訪や山之内上杉に到底勝てず、甲斐に引きこもって北条今川に攻め込まれて滅亡だろうな
>>チートキャラの信長と秀吉以外で天下取りに近かった大名っているか?
まず信長や秀吉は天下統一なんてしてないし(秀吉は一時的に諸大名と同盟関係結んだだけで徳川に瞬殺されただけの雑魚でしかない)
家康は天下取ったし信玄も謙信も天下取る直前で病死しただけ。三好もそうだがな
>>地方ごとにその土地を良く知る大名がいて、他所からきた者が簡単に治められるような世界じゃあ恐らくなかったと思うんだ
意味がわからん。ソースはなんだ?
>>経済原理から言っても土地に根を張った者を使うのが一番合理的だし、史実でもそうなってる
土地に根を張ったもの使ってない事例なんていくらでもあるわアホ。戦国大名なんてよそからよそへ侵略したり逆に国取られたりしたりするのが普通なのに
土着性なんてあるわけねーだろアホ
>>国替えみたいなことは信長と秀吉がチート発動しまくって国内ほぼ統一したからこそ政権が磐石になって可能になったんだし
信長や秀吉は単に棚ボタで畿内に雑魚しかいなかったから国力と相手の分裂・内訌・混乱に乗じて棚ボタ的に火事場泥棒しただけだし
それ以前の歴史でも土地から土地への移動なんてしょっちゅうありまくるだろうがアホ
418名無し曰く、:2013/05/27(月) 17:17:30.61 ID:/UkYvZHq
信長も秀吉も徳川に実際木っ端微塵にされたしな。所詮火事場ドロと棚ボタでとっただけの見せ掛け政権だからあっさり徳川にガチンコ負けして大敗
織田の場合は尾張は全国トップクラスの好立地&チート国力
斉藤は幼君で極度に弱体化 義元は運よく突発事故で戦死 六角も観音寺騒動で弱体化 三好は統率が取れずバラバラ 北畠は内紛で分裂
上杉は内紛で極度に弱体化 武田は勝頼が発狂失政自爆&徳川北条戦で疲弊しきり抗戦したのは仁科だけ
浅井はわずか10万石そこそこで織田領国の20分の1か30分の1くらいの国力 朝倉・毛利は大チャンスでも本国にヘタレ退却するアホが当主
こんな弱体化した雑魚相手の火事場泥棒戦争ばっかやってるのに負けまくり蹴散らされまくる信長
秀吉が天下取れたのは単に棚ボタでしょ。そもそも天下など取っておらずあっけなく徳川に秒殺されるわけだが。
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
419名無し曰く、:2013/05/27(月) 17:20:24.00 ID:/UkYvZHq
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。

秀吉は信雄相手に7倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。

秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。
北条は滝川を瞬殺した。

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた

小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
小田原合戦時の陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。
それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。
秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前

そんな戦闘で一柳や堀尾の子、前田重臣が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し
小田原1000程度や忍1000に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方だったおかげ。

しかも北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉

享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。
にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれた雑魚豊臣軍

秀吉は伊勢で滝川に蹴散らされまくる(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)
北条は滝川を瞬殺。6000戦死の壊滅的大勝

豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家が江戸期も存続

北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉